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名古屋の観光

名古屋の観光

はじめに

 

確かに、太平洋戦争で軍需工場が多かった名古屋の街は焼野原となり、何もなくなった。

しかし、あれから80年近くが経った現在、町は随分変わった。

戦後建てられた鉄筋のお城は石垣は残った。戦国時代を終わらせた、3英傑を生んだ基盤は豊かな濃尾平野や繋がっている三河平野にあり、陶器の瀬戸、常滑がある。戦前は芸どころでもあり、お茶屋や和菓子屋も多い。

今の名古屋弁は濁音が多く、穢いが、元の名古屋弁は、「なもうす=なも」「遊ばせ=きゃそばせ=きゃ」となり、武家言葉の影響を受けている。それに流入してきた人の方言=瀬戸なまり、岐阜なまりなどが加わり、現在の名古屋弁となった。

 

繁華街

名古屋市の繁華街は名古屋駅前と栄です。名古屋駅の東2キロ弱に栄があります。名古屋駅から栄には広小路通(6車線=片側3車線)・錦通(6車線)・桜通(メイン道路6車線+側道片側2車線)が通っています。広小路通は混雑していて、桜通りは広いけど少し北に外れています。広小路通を用もなく長く走ることはしません。

 

23年10月のネット記事で錦三丁目で2時間飲んで41万円請求された記事が出ていたが、客引きに連れていかれては絶対ダメだと思う。専属の客引きはいなくて、店は1客辺り最低でも1万円は払っている。また、名古屋は山口組組長を擁する弘道会の本拠地でもある。普通の名古屋人は客引きを避ける。

私は錦では客引きの声がかからないように速足で歩いた。設立から、5年以上経っている必要がある。ただ、そういった店は大抵常連客ばかりである。

観光客であればホテルのフロントに聞くのが間違いないだろう。

歓楽街が女子大小路とは淫靡ですが、この一角に中京女子短期大学があったためで、現在はそこは東急ホテルになっています。

 

今のメインの歓楽街である「錦」は錦大津橋交差点の北西である錦三丁目のことで、「キンサン」とも言います。出来上がっていったと言うより作られた街で、出来てから50年ほどです。それまでは、住吉町が錦の南側に、女子大小路が南東にあり、名古屋の歓楽街を担っていました。

現在の錦は高級なイメージで、住吉町は若い人が多く、女子大小路南の池田公園周辺は外国人ホステスが多くいます。

 

副都心 金山・大曽根

 

副都心として、金山橋と大曽根があり、金山橋は主要な名鉄各線、JRは東海道本線・中央線、地下鉄名城線が走り、地下鉄名港線が分かれています。JR在来線の特急も止まり、名古屋駅より飲食店が近いので、待ち合わせには便利です。

大曽根JR中央線名鉄瀬戸線・地下鉄名城線・ガイドウェーバス(高架部分は鉄道に分類)が走っています。

東南には城東園と言われる遊郭街がありました。尾張徳川の別邸であった「徳川美術館」へ行くには便利です。

大曽根商店街は行政の音頭でOZモールとなりましたが、商店への配慮が足りないように思います。

飲食店はサイトで調べられます。全国チェーンでなくて、6年以上続いればいい店だと思います。常連ばかりで仲間に入れない場合がありますので、口コミなので調べてください。

今池

今は寂れていますが、今池も飲食店や商業施設が多い場所です。名古屋めしである台湾ラーメンの元祖「味仙」の本店があります。ディープなところなので、店を知っている人には穴場ですが、店を探すのは結構難しいです。

 

 

 

名古屋駅周辺

 

東西に長い駅が多い東海道線名古屋駅は南北に長くなっています。東京は南側、京都は北側になります。西地区を駅裏と称していて、西1kmほどで中村遊郭に出ます。その付近には暴力団事務所もあって治安が悪いところとのイメージでした。駅東に高層ビル群ができ、西地区には大型量販店が入り、リニア新幹線の駅が整備中であるなど、かつての面影はありません。

名古屋の商店街

 名古屋の商店街は東西に延びる広小路通沿いです。広小路は西側は名古屋駅に突き当たり。東側はさなげグリーン通になります。納谷橋・伏見・新栄・千種駅今池・池下・覚王山・末盛・東山・星丘・一社・本郷・上社・藤が丘などはほとんど地下鉄の駅があり、商店街として連なっています。

濃尾平野

 

日本で面積が五位である濃尾平野は木曾や飛騨の山岳地帯から流れ出る川の扇状地です。

月日が経ち、川が出来たり埋め立てたり、地震津波などで変形して現在に至っています。

防災マップである程度 埋め立ての状況が予想できます。

 

 

川の運んだもので肥沃な土地が作られたため(4大文明の地には大河が流れています)、作物が良く取れました。

3英傑が愛知県出身であることも、古都=京都に近いことと 地域の経済のためです。

 

河川では長さで7位の木曽川(229k)・20位の長良川(166k)・47位の揖斐川(121k)のは他、恵那山から流れる庄内川天白川、市内を流れる山崎川などがあります。山崎川は瑞穂競技場の中を流れています。

 

名古屋市濃尾平野の真ん中近くにあります。木曽川長良川揖斐川木曽三川は暴れ川で、治水をして今の形となりまった。今でも木曾三川下流域では、堤防で洲を囲った輪中が見られ、氾濫しても逃げ込めるように高い石垣の家もあります。

 

名古屋市の川

名古屋市を取り囲むように庄内川が北と西を流れ、天白川が東を流れていて、その支流がそれぞれの川に注いでいます。

      天白川                          庄内川

瑞穂運動場の中を南北に流る 山崎川は市内を経て海に注いでいます。両側に桜が植わっていて、春には花見客で賑わいます。今は禁止されていますが、昭和45年ぐらいまでは屋台も出ていました。

 

運河

堀川は名古屋城の資材を運ぶために作られました。また、治水と運輸のために新堀川今池からの精進川を改修して作られたました。そのため地面が低く、大きな貯木場があり、伊勢湾台風の被害が拡大する原因になりました。他には名古屋駅南の笹島と名古屋港を結ぶ中川運河があります。

 

 

名古屋城がある為、名古屋市が洪水にならないように庄内川の堤防は名古屋市側が反対側より高く作られました。「小田井人足」=見せかけだけやっている様子の 語源です。春日井市には15の森跡があり、決壊する庄内川のために500年ほど前に人身御供とされた15歳の少女の霊が祭られています。

守山区 緑区

  1963年(昭和38年)4月1日
守山区は1963年2月15日、緑区は1963年4月1日、名古屋市編入がされました。これ以降分区はありましたが、編入はありません。それぞれ前の行政区は守山市と鳴海町でした。鳴海町は桶狭間の戦いの主戦場でした。守山市は小牧長久手の戦いの前哨戦が行われました。長久手の戦いの落ち武者伝承があちこちに残っています。小幡緑地公園があり、その近くに野鳥観察小屋も設置されています。自然豊かなところで、山菜もとれます。昔は公園やその北側で松茸もとれたそうです。
庄内川沿いには多くの古墳があり、遺跡指定されています。また、名古屋市の古墳ミュージアムが志段味にあります。