名古屋城
立地
名古屋城の木造化に関する議論は様々です。城は空襲で焼失しましたが、2016年に89歳で亡くなった母は、その時学徒動員で一宮の軍需工場からの帰り道でした。名古屋駅に逃げ込む際に名古屋城が炎に包まれているのを見たと述べていました。
名古屋城は平城でありながら、現在の名城公園周辺は沼地で、名古屋台地の北端に位置していたことが、街の高低差からも伺えます。南にある熱田神宮の先は海で、街道は桑名まで渡し舟で渡る必要があり、海に面していました。城を攻めるには水軍が必要でしたが、直接攻めるには距離があったのです。北に沼、海から攻められないという立地は、家康が最後に築いた城であり、中心地だった清須を移す理由にもなりました。
さらに、城を取り囲んで寺町を配しました。
尾張藩主が仏教を保護したこともありますが、寺院は広い境内を持ち、砦として使用できることもありました。
御土居下同心
御附家老
尾張藩は徳川御三家筆頭であり、幕府(徳川本家)より御附家老が附けられた。将軍の親戚筋で代々の家臣がいなかったからだが、家老なので尾張藩主の家臣であったが、実際は大名格でお目付け役のような存在だった。尾張藩は、成瀬家・竹腰家の二家が長い期間 家老職を務めた。この二家は幕府との約束通り、独立して大名になる事を望み、幕府に何度か願い出たが、実際に大名として認められたのは、1868年1月成瀬家が犬山藩(城)、同年6月に竹腰家が今尾藩(城)であった。個人所有の国宝の城であった犬山城主の成瀬正俊氏はその末裔である。2004年に正俊氏が亡くなり現在は妹の淳子氏によって設立された公益財団法人=犬山城白帝文庫 所有となっている。
竹腰氏と成瀬氏の屋敷が城の入口の両脇にある。
竹腰氏と成瀬氏の屋敷が城の入口の両脇にある。
清州越し
もともと尾張の中心は清州であった。今の清州は名古屋市北に隣接する世帯数3万、人口7万弱の小都市で、庄内川とその支流である五条川に挟まれ、新川がその間を流れている。キリンビールの巨大な工場があるため名古屋市に入らないのだろうと思う。街並みは名古屋市と庄内川で隔てられているが、人家は同じようにある。「洲」が付く名前からも判るように水攻めに弱かったため徳川家康が今の地を名古屋城とし、多くの人を名古屋に移住させた。今は地名が変更されているが、かつては清州からの名前が街に付けられていた。