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出雲大社と古代日本

出雲大社と古代日本

 

はじめに

出雲政権は大和朝廷成立以前から最大級の地方勢力でした。紀元前1000年頃の出雲半島は島であり、南の陸地との間には浅瀬が拡がっていて、波が静かな良港として、交易の拠点でした。

港の統治権を巡る戦いが幾度かありました。やがて浅瀬が埋まり、良港ではなくなり、航海技術の発展などにより拠点が敦賀に移り衰退しました。

西に向かってえば、稲佐の浜で海とぶつかります。

陸伝いに九州まで行くことができ、その頃先進地域であった朝鮮半島へは壱岐の島・対馬を経て最大50kmほどの海を渡る航海技術があれば到達できました。70km渡れれば、沖ノ島を 経由して、朝鮮は島へは直線的に行けました。日本海は太平洋よりも波が低く、距離的にも短いので、沖縄本島へ行くより、随分簡単だったと思います。瀬戸内海はさらに波が静かです。奈良付近に大きな政権が出来ると九州からは瀬戸内海がメインストリートとして使われました。平家が、瀬戸内海を落ち延びていきますし、厳島神社もそれを物語っているように思います。古事記では淡路島=淡道之穂之狭別島が出てきますが、古代には瀬戸内海が主たる交通の道であったと思われます。

多くの古代出雲の人々は朝鮮半島から来た人と古来日本人の混血だったと思います。古来日本人は縄文人で、半島から来た人は渡来人として、弥生人になったと思われます。

大陸から一方通行で、文化が伝わったの見るのは非常に不自然です。日本海には海の民がいて、経験を積んだ彼らにより、文化も人も交流していたと思います。この頃は、経験が非常に重視されるとともに、行動範囲は現代より随分小さかったと思います。

 

 

交易

 

17世紀まで、航海は重要な交易手段であり、川には堰がなく内陸まで港が作られていました。また、100年単位で見れば、地形も変化し、国境も含めて現代とは異なっていました。

さらに、私たちの感覚もメルカトール図法などによって歪められています。

このような事柄を考慮する必要があります。

 

 

語源

雲がいずるで、出雲だが、語源に関しては古くからいろいろ言われている。

出雲の語源 | しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト (kankou-shimane.com)

 

県別"縄文度"初公開!この体質は縄文人から?遺伝子から探る人類史 NHK解説委員室

縄文文化

ほんのわずかですが、東北、島根、鹿児島の住民には縄文時代の遺伝子が強く残っている結果となっています。出雲は交易の要所であり、東北地方とも朝鮮半島とも関係があったでしょう。また、縄文時代の人々には海洋を利用する文化もありましたし、朝鮮半島ではゲノムから縄文人と推測される古代の遺骨も発見されています。半島以外で見つかっていないことは、まだ発掘が進んでいないか、あるいは日本列島の縄文人が半島まで移動していた可能性があります。後者の可能性のほうが高いと考えられます。

出土品を見ると、古代の大社は縄文文化朝鮮半島の技術が融合して作られた可能性もあります。

 

さいごに

 

大和政権ができ、交易路として瀬戸内海が使われるようになったことも出雲政権が衰退した原因だと思います。古事記の「おのごろ島」はそれを象徴しています。源平合戦で平家も瀬戸内海を逃げていきました。

川による浸食や土の運搬や地震、火山活動、気候変動などが地形を変化させます。その結果、国境や県境が変わることもありますし、そこに住んでいる人も変わります。

私たちは父と母の2人の親を持ち、4人の祖父母を持つなど、古い時代になると指数関数的に祖先が増えていきます。したがって、私たちはさまざまな人々の遺伝子が混ざり合っています。天照大神がいるとすれば、全ての日本人はその子孫です。人に限らず、全ての生物は万世一系です。つまり、全ての生物の遺伝子は繋がっています。