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進歩は人類を幸福にした?:「サピエンス全史」

          はじめに

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』は、私たちの歴史観を根本から揺さぶる一冊です。彼は、人類が「進歩」と信じてきた出来事の多くが、必ずしも幸福をもたらしたわけではなく、むしろ新たな不幸や格差の始まりでもあったと指摘します。

その代表例が「認知革命」と「農耕の始まり」です。人々は農耕によって土地に縛られ、所有を守るために国家という仕組みが生まれました。国家は権力を握り、さらに農地は河川に依存していたため、氾濫に備えた治水には膨大な人力が必要でした。その過程で人々の力を組織化する必要が生じ、やがて社会の階層化が進んでいきました。土地をめぐる争いもまた、この時代から避けられないものとなりました。

こうして生まれた格差は、やがて産業革命によってさらに拡大します。文明の発展は人々を豊かにした一方で、多くの人を厳しい状況へ追いやり、不平等を強化してきたのです。しかし、人類は長らくその現実を「進歩」と呼び、疑うことなく受け入れてきました。

本稿では、こうした「革命」がいかにして格差を生み出し、現代社会を形づくってきたのかを、ハラリ氏の視点を手がかりに考えていきたいと思います。

   認知革命:虚構がもたらした光と影

約7万年前に起きたとされる認知革命は、ホモ・サピエンスが言語を操る能力を飛躍的に向上させ、*構(フィクション)を語れるようになったことだとハラリ氏は説きます。お金、国家、宗教、企業といったものは、この虚構の産物(幻想)です。私たちはそれらを信じることで、血縁関係のない何万人もの人々とも協力できるようになりました。これは人類が地球の支配者となるための最大の武器でした。

しかし、この能力は、同時に支配者と被支配者という階級を生み出す基盤にもなりました。虚構の物語を操る支配者層は、より多くの人々を統治し、その富を独占することが可能になったのです。

    農耕革命:歴史上最大の詐欺?

一般的に「農耕革命」は人類の大きな進歩とみなされます。しかしハラリ氏は、この通説に異を唱えます。著書『サピエンス全史』の中で、彼は農耕が人類を豊かにしたのではなく、むしろ庶民の生活水準を悪化させたと指摘しています。

狩猟採集生活と比べると、農耕にははるかに多くの労働が必要でした。さらに、限られた作物を主食とすることで食生活は偏り、栄養不足が常態化しました。定住による人口密度の上昇は、伝染病の蔓延を招く要因にもなりました。

加えて、生み出された余剰食料は庶民に還元されることはなく、支配層に集中しました。その富は彼らの飽食や豪奢な宮殿の建設、さらには軍隊の維持に使われたのです。ハラリ氏は農耕革命を「歴史上最大の詐欺」と呼び、人々はより良い暮らしを夢見て重労働の罠に陥り、その果実を少数のエリートだけが享受したと論じています。

この構図は世界各地の歴史にも見られます。日本では貴族社会で農民が貴族のために、封建社会では武士のために働かされました。中世ヨーロッパでは農奴が領主のために、古代ローマでは奴隷が経済を支える存在となっていました。

    産業革命:格差の加速装置

そして時代は進み、科学の発展は産業革命を生みました。機械の発明と工場の出現は、社会全体の生産力を飛躍的に高めました。しかし、この進歩もまた、平等な富の分配をもたらすことはありませんでした。

生産手段を持つ資本家は、労働者を安く雇い、富をさらに集中させました。一方で、都市に流入した労働者は、劣悪な環境で長時間働き、貧困と病気に苦しみました。産業革命は、農耕革命で生まれた格差の構図をさらに強固なものにし、資本家と労働者という新たな対立を生み出したのです。

       言語化と思考

言語化」とは、曖昧で連続的な現実や感覚を人為的に区切って記号化する行為だと言えます。決して、音声で食べ物の在処や危険を伝え合う事を「言語」とは言いません。

言語 - Wikipedia

たとえば、空の色も「青」と一言でまとめてしまえば共通理解できますが、実際には無数の色合いがあります。この「区切り」がなければ共有は難しく、逆に区切った瞬間に思考が一気に進みます。

ここでポイントになるのが ファジー(曖昧さ) です。

  • 言葉は「あるもの」と「ないもの」を完全に切り分けられない

  • それでも人間は「だいたいこれ」として共有する

  • このあいまいさが、逆に柔軟で高度な思考を可能にする

さらに、言語は「画像そのもの」よりも思考を飛躍させます。画像は豊かな情報を持ちますが、個人の感覚に依存しやすく、共有や抽象化が難しい。一方、言葉は情報を「圧縮」して他人に伝えるため、共有・推論・組み合わせが飛躍的に効率化されます。

つまり、

  • 言語化=「現実を区切り、記号化する行為」

  • 区切りには必ず曖昧さ(ファジー)が含まれる

  • しかしその曖昧さこそが、多様な解釈や発展を可能にする

  • 言葉の共有によって、単なる映像的認識を超えた高度な思考が成立する

ここに、人類の進化の核心があると思います。

       さいごに

ホモサピエンスネアンデルタール人やデニソワ人を駆逐し、世界へ広がった要因として、多くの人は「認知革命」に焦点を当てました。「サピエンス全史」もそういった観点で語る人が多いように思いますが、「サピエンス全史」主眼点はそこではないと思います。確かに認知革命は「HUMAN」の始まりでしたが、重要なのは、その結果として何が引き起こされ、どのような影響が現代にまで続いているのかを俯瞰することです。そこに、現代の問題の起点があるのだと思います。

Human - Wikipedia

ハラリ氏が問いかけているのは、「進歩」が人類全体を幸福にしたのか、ということです。歴史を振り返れば、個々の生活はしばしば犠牲になりながらも、社会全体としては大きな変革が繰り返されてきました。そして現代においても、AIやロボットといった新たなテクノロジーが、社会のあり方を根本から変えようとしています。

では、私たちは過去の教訓から何を学ぶべきなのでしょうか。テクノロジーの恩恵を一部の人々だけが独占するのではなく、すべての人が公平に享受できる社会を築けるのか。これは、私たち一人ひとりが真剣に考え、行動すべき課題なのかもしれません。

以上が、私なりの『サピエンス全史』の捉え方です。
本書が世界的な大ベストセラーとなった理由も理解できます。しかし一方で、一部のYouTuberによる解説には、内容を誤解したり、的外れな批判を行っているものも少なくありません。再生回数を稼ぎ、収益を上げることを目的としているのでしょうが、その姿勢には憤りを感じます。

「お金」はハラリが指摘するように、まさに人類の認知革命によって創り出された概念です。ところが現代社会では、その「お金」を得るためなら何でもするという風潮が広がり、特殊詐欺や殺人事件にまで発展しています。

YouTubeの世界でも、再生回数を伸ばし収益を得るために、誇張したタイトルや迷惑行為、詐欺的な宣伝が横行しています。
現代社会は貨幣経済の上に成り立っていますが、貨幣そのものは人間の想像力が生み出した「信頼の物語」にすぎません。
私たちが本当に目指すべきは、貨幣の多寡ではなく、より充実し、幸福に生きることではないでしょうか。

階層社会と自然破壊の記憶:農耕社会

        はじめに

もし人類が今も狩猟採集生活を続けていたら、私たちの社会は一体どうなっていたでしょうか?

今、私たちが当たり前だと思っている「家」「所有」「国」といった概念は、存在しなかったかもしれません。これらの概念はすべて、人類が農耕を始めたことによって生まれました。

農耕と牧畜の始まりは、人類史における最大の転換点です。それらの技術の獲得には長い時間がかかったでしょうが、それは単に食料を得る方法が変わっただけでなく、私たちの生き方、社会の仕組み、そして互いの関係性を根底から作り変える、まさに「革命」でした。

この記事では、狩猟採集から農耕への移行が、いかにして現代社会の土台を築いたのかを考察します。

    農耕が生み出した新しい秩序

農耕は、人類に安定した食料供給と定住生活をもたらしました。これは単なる暮らし方の変化にとどまらず、「土地を占有する」という意識を芽生えさせ、やがて「所有」という概念へと発展していきます。狩猟採取の社会にも縄張りは存在しましたが、それは部族全体が共有する漠然とした領域であり、個人や特定集団の「所有」とは異なるものでした。

土地を守るためには「権力」が必要となり、力が土地の保有を保証するようになりました。これにより、土地は単なる生活の場から、権力によって裏付けられた「財産」へと変わりました。土地が子孫に受け継がれることで、地位や身分が固定化され、社会の階層が作られていったのです。

労働に従事する人々と、全体を管理する人々という役割分担が生まれました。この分業が発展し、「国家」が誕生しました。権力者は土地と人々を支配し、税や労働を徴収する体制を整えました。

このように、農耕は単なる技術の進歩ではなく、人類社会の構造そのものを根本から作り変え、自然との関わり方を変えた、画期的な出来事でした。

      環境改変と偏った食物

農耕の開始は、人類にとって豊かさをもたらす一方で、大規模な自然改変の始まりでもありました。森林の伐採、川のせき止め、湿地の干拓によって畑や水田が生まれましたが、同時に自然の均衡を崩す契機ともなったのです。

現代における環境破壊や気候変動の根源は、この農耕社会の成立にまでさかのぼることができます。「自然を支配し、改変できる」という意識が芽生えたのもこの時代でした。

また、狩猟採取社会では多様な食物を摂取していましたが、農耕社会では主食が固定化され、糖質中心の食生活に偏りました。その結果、今日問題となっている生活習慣病メタボリックシンドロームの源流も、農耕の始まりに見いだすことができるのです。

       信仰と支配

農耕社会において、自然は恵みであると同時に脅威でもありました。人々は豊作を祈り、災害を鎮めるために祭祀を行い、神々を祀りました。自然を制御する存在としての神が生まれ、やがて神と人をつなぐ存在としてシャーマンが登場します。東北のイタコや沖縄のノロ・ユタは、その名残です。天皇もまた、長く祭祀を司るシャーマン的性格を持ってきました。

やがて、祭祀を担う者や土地を管理する者は特権を得て、支配階級を形成します。こうして宗教と政治の権威もまた、農耕を基盤として築かれていったのです。

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     交易と言語・文明

農耕によって生まれた余剰の食料や物資は、他の集団との交易を活発化させました。異なる言語を話す人々が出会う場では、意思疎通の必要から「ピジン語」と呼ばれる簡易的な共通言語が生まれます。これが定着して日常的に用いられるようになると「クレオール語」となり、多くの現代の言語もこの過程を経て発展してきました。言語の交流は単なる単語のやり取りにとどまらず、他者の思考や価値観を取り込み、文化をより多層的で豊かなものにしていったのです。

さらに、交易は物資の交換だけでなく、文化や技術の伝播を直接促し、文明の誕生へと結びつきました。その過程で、交換を効率化する手段として「貨幣」が発明され、交易とともに発展を遂げます。貨幣は人々や地域を結びつけ、広大な経済圏を築き上げる基盤となりました。

言い換えれば、文明とは、交易の広がりと、それを支える言語と貨幣の進化によって形づくられてきたものなのです。

        さいごに

農耕は人類に文明の扉を開いた画期的な出来事でした。しかしそれは同時に、環境破壊・土地所有・格差・国家・上下関係といった現代社会の原点でもあります。ハラリ氏は「サピエンス全史」の中で農耕革命を「人類史上最大の詐欺」としています。

農耕によって得た豊かさと、その裏に潜む負担をどう受け止めるのか。今こそ私たちは人類史の始まりに立ち返り、自然との関係や社会にある色々な問題に向き合うことが求められていると思います。

 

       -----------追----------

文化と文明は混同しやすい言葉です。

文化(Culture)

  • 意味:人々の精神的・象徴的な営み。価値観、宗教、芸術、言語、習慣、道徳、伝統などを含む。

  • 特徴

    • 主に「内面的・精神的」なもの。

    • 数値化や技術レベルで測りにくい。

    • 地域や民族ごとに独自の色合いを持つ。

    • 変化はゆるやかで、世代を超えて受け継がれる。

文明(Civilization

  • 意味:人々の生活を便利にするための技術的・物質的な営み。農耕、都市、法律、科学技術、交通、通信などを含む。

  • 特徴

    • 「外面的・物質的」なもの。

    • 発展段階や技術水準として比較しやすい。

    • 他地域に伝播・移植しやすい。

    • 進歩や発展の速度が速い。

両者の関係

  • 文化は「精神的な土台」、文明は「物質的な器」とも言えます。

  • 文明は文化を支える一方で、文化を変質させることもあります。

  • 文明は文化が入り混じり作られて行くものです。
  • 例えば、スマートフォンやインターネットという「文明」が登場したことで、私たちの価値観や人間関係といった「文化」も大きく変化しています。

船と輸送の歴史 ― 川と海が結んだ古代の道

      

      はじめに

人類の歴史は「移動」と「交易」の歴史でもあります。道が整備されるよりも前から、川や海は自然の「道」として人々を運び、物や文化を結びつけてきました。私たち現代人が、見落としやすいところですが、船の発達は単なる輸送手段にとどまらず、文化の広がりそのものを支える基盤となったのです。それが交じり合い文明となりました。

現在では道路や鉄道といった陸上交通が主流ですが、それは産業革命以降、石炭を用いた機関車やエンジンが発明・発展した結果にすぎません。それ以前の長い時代においては、船こそが物流の中心でした。さらに、当時の川には堰もなく、海岸線も埋め立てや地殻変動によって今とは大きく異なっていました。人の移動や物流を考える際には、こうした自然環境の変化も視野に入れる必要があります。

このように見ていくと、昔から文明は船による文化交流によって作られたとも言えます。

    古代の舟の概念

1. 技術的概念

羅針盤がない時代、人々は自然の力を借りて航海していました。

大量の荷物を遠くまで運ぶには、陸路よりも水路が効率的でした。当時は羅針盤はありませんでしたが、太陽や月、星の位置を頼りに正確に航海し、風や潮流をうまく利用していたと考えられます。

現代に比べて夜は暗く、空気が澄んでいたため、当時の人々は今よりも優れた観察力で自然を読み解き、航海に役立てていたのでしょう。

  • 最初の舟は、丸木舟(一本の大木をくり抜いたもの)や筏でした。

  • その後、板を組み合わせたり、帆を使ったりと発展し、より長距離・大量輸送が可能になりました。

  • ただの移動手段ではなく、「海や川を越える」という人間の力を超えた移動の象徴でした。

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2. 宗教的・神話的概念

船は神話にはよく登場します。これは自分たちが渡来してきた民の子孫であることを物語っているのかも知れません。

  • 日本神話では「天鳥船(あめのとりふね)」が登場し、神々が乗る船として描かれます。

  • 古代エジプトでは「太陽の舟」があり、ラーが天空を渡る象徴として重要でした。

  • 舟は「この世とあの世を結ぶもの」とも考えられ、葬送儀礼で舟形の副葬品が使われる例も多いです。

3. 社会的・経済的概念

  • 舟は交易を広げ、集落同士や大陸との文化交流を可能にしました。

  • 縄文時代から黒曜石や貝が広域でやり取りされており、舟がその基盤でした。

  • 舟の発展は「水上交通ネットワーク」を生み出し、陸路より効率のよい輸送の象徴となりました。

海から見直す日本の歴史 -「寧波プロジェクト」がめざしたもの | Ocean Newsletter | 海洋政策研究所 - 笹川平和財団

海文化 交流|越前町 織田文化歴史館

https://www.isan-no-sekai.jp/report/8999

https://wave.pref.wakayama.lg.jp/news/file/33851_0.pdf

https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/995986.html

4. 象徴的概念

  • 「舟に乗る」ことは、共同体の一員として運命を共にすることを意味しました。

  • 日本語にも「同舟相救う」「舟を漕ぐ」など、人生や社会を舟に例える表現が多いです。

  • 古代人にとって舟は、生活手段であると同時に、人生や死生観を映す象徴でした。

         川と船 ― 内陸の交易路

人類が最初に利用した輸送路は「川」でした。川は流れに乗れば楽に下ることができ、重い荷物も運べます。逆に上流へ行くときは船を曳いたり、帆を使って風を利用しました。

  • エジプトではナイル川が文明の大動脈となり、農産物や石材を運びました。

  • 中国では黄河・長江が人や文化を結び、のちに大運河が内陸の物流を大規模に支えるようになります。

  • 日本でも淀川・木曽川などが古代から輸送の要であり、城下町の発展とも深く結びついていました。

海と船 ― 交易の拡大

川から海へと活動範囲が広がると、交易の規模は飛躍的に拡大しました。初期の船は丸木舟でしたが、次第に外洋へ出られるように工夫され、丸木をくり抜いた船に板を合わせ、帆を立てる技術が発達しました。

  • 地中海ではギリシャ人やフェニキア人が交易のネットワークを広げ、オリーブ油やワインが運ばれました。

  • インド洋ではモンスーンの風を利用した航海が確立し、アラビア半島・インド・東南アジアが結ばれました。

海のシルクロード ― 東西を結ぶ文化の道

シルクロードと聞くと砂漠の道を思い浮かべますが、「海のシルクロード」もまた重要でした。
中国南部や東南アジアからは陶磁器・絹・香料が積み出され、インド洋を経て中東・アフリカ、さらには地中海へと渡りました。逆に、西方からはガラス器や銀などが東へ運ばれました。

日本もこのネットワークに接続しており、奈良時代には遣唐使が唐の都・長安へ向かい、同時に異国の文物も海路で流入しました。瀬戸内海は「日本の内海シルクロード」とも言える存在であり、出雲・大和・九州を結ぶ文化交流の舞台でした。

           古代ローマ帝国

ローマ帝国は地中海沿岸を支配し、ヨーロッパの形成やキリスト教の世界的な拡大に大きな役割を果たしました。彼らはギリシャ文明が築いた科学的思考や自然観を尊重し、自らの文化に取り入れることで、その知的遺産を継承・発展させたのです。

また、ギリシャ文字を発展させてアルファベットを生み出し、西洋の分析的な思考様式や医学の基盤を築きました。さらに、ローマ帝国の言語であるラテン語はヨーロッパ諸言語の源となり、英語もゲルマン語を基層としながらラテン語やフランス語から膨大な語彙を取り込みました。しかし、発音の変化と綴りの固定が一致しなかったため、現代に見られる「読みにくい英単語」が生まれることとなりました。

一方で、スウェーデンノルウェーフィンランドといった北欧地域は、古代から中世にかけては長らく辺境とみなされていました。バイキングを生み、カナダにまで足を延ばした彼らも、コロンブスの時代にはヨーロッパ世界の中心からは外れていたのです。こうした北欧諸国が先進国として国際的に認められるようになったのは、第2次世界大戦後のことでした。

つまり、古代から中世にかけて「ヨーロッパ」と呼ばれたものの中心は、常に地中海世界ヨーロッパ大陸側にあったのです。そして、その繁栄を支えた最大の要因は、地中海を基盤とする海運にほかなりません。

東洋医学と西洋医学はなにが違う?治療家として覚えておきたい基礎知識 | 国試黒本

https://www.iken.ac.jp/work_books/19611/

東洋医学と西洋医学の違いは?それぞれが活躍する場面とは | 杜の都の漢方薬局「運龍堂」

第2章「西洋医学」と「東洋医学」、何がどう違うの?|〜“どこに行っても治らない”あなたのための医療の見方〜 |Tsugunosuke Kunii B.C.Sc / カイロプラクティック理学士(豪州)

          船がもたらした文明の融合

当たり前のことですが、見落とされがちな点があります。それは、船や海路が単に物資を運んだだけでなく、宗教・技術・思想といった精神的・文化的な要素も運んだということです。古代文明を含め、私たちが「文明」と呼ぶものは、常に多様な文化の交流と蓄積の上に成り立っています。地域ごとに独自の特徴はあっても、完全に孤立した文明など存在しません。文明が栄えた場所には、必ず外部との交流があったのです。

  • 日本に伝わった仏教は中国・朝鮮から海を渡ってきて、茶道や無常観など日本文化の伝統を築きました。

  • イスラム商人は海を通じてインド洋交易を支配し、香辛料のルートを握りました。

  • 大航海時代にはヨーロッパが世界へ進出し、グローバルな交流が始まりました。

 

                                           まとめ

古代から現代に至るまで、川と海は人類にとって「自然の高速道路」でした。船の技術が進歩するたびに世界は広がり、物と文化が交流しました。いま私たちが使っている調味料や陶器、宗教や思想の多くも、この「水の道」を通じて運ばれてきたものです。

船は人類の文明を押し広げた「時代のエンジン」と言えるでしょう。

 

船の年表

時期 出来事・特徴
紀元前8000年頃 世界各地で丸木舟が使用され始める。日本の縄文時代の遺跡からも丸木舟が出土。
紀元前4000年頃 メソポタミアやエジプトで葦舟・帆船が登場。ナイル川で定期的な輸送が始まる。
紀元前3000年頃 エジプトで大型帆船を建造し、紅海・東地中海での航海が発達。
紀元前2000年頃 フェニキア人が地中海交易を広げる。造船技術・航海術が飛躍。
紀元前1500年頃 ミケーネ文明やクレタ文明で大型船が活躍、オリーブ油やワインを輸出。
紀元前1000年頃 中国で揚子江黄河の舟運が発達。カヌーから板を組んだ船へ。
紀元前500年頃 ギリシャで三段櫂船(トリレーム)が登場、軍事・交易に活躍。
紀元前221年 秦が中国を統一。内陸輸送のための運河建設(霊渠)開始。
紀元前206年~220年 漢代、中国と西方を結ぶ「陸のシルクロード」と並行して「海のシルクロード」が成立。広州から東南アジア・インド洋へ交易路が伸びる。
1世紀 ローマ帝国、インド洋交易に参加。紅海経由でインド・東南アジアへ。
3世紀 日本で古墳時代朝鮮半島や中国からの渡来人が造船技術を伝える。
4世紀 倭の国が朝鮮半島や中国南朝と外交・交易。瀬戸内海が交易路として発展。
7世紀 遣唐使が開始。日本から唐へ定期的に渡航。海のシルクロードに本格的に参加。
8世紀 奈良時代、唐からの仏教・文物が海を通じて流入新羅渤海との海上交流も活発。
9~10世紀 アラブ商人がインド洋を支配。香料・象牙・絹の交易が盛ん。
11世紀 中国でジャンク船(多層甲板・大型帆船)が発達。宋代の海外交易が拡大。
13世紀 モンゴル帝国の拡大により、陸と海のシルクロードが再び活発化。元寇により日本も外洋航海の緊張を経験。
15世紀前半 鄭和の大航海(明)。巨大な宝船艦隊がインド洋へ遠征し、東アフリカまで到達。
15世紀末 ヨーロッパの大航海時代開始。コロンブスが大西洋を横断、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開く。
16世紀 ポルトガル・スペインがアジア交易に進出。マニラ航路で日本の銀が世界経済に組み込まれる。
17世紀 オランダ・イギリスが東インド会社を設立。帆船時代の最盛期。
19世紀前半 蒸気船が登場し、航海が安定・高速化。国際貿易が飛躍的に拡大。
19世紀後半 スエズ運河(1869年)、パナマ運河(1914年)の開通により世界の海上輸送が短縮化。
20世紀 ディーゼル船や鉄鋼船が主流に。コンテナ船が登場し、海運が効率化。
21世紀 巨大コンテナ船・LNG船が世界物流の基盤に。自動運航船の研究も進む。

穀物経済から貨幣経済へ:日本と世界の経済史

        はじめに

現代を生きる私たちは、貨幣経済社会の中で、お金なしには生活できません。しかし、今では当然のように使っている貨幣も、長い歴史を経て定着してきたものです。

およそ5000年前に貨幣の原型が生まれたと考えられていますが、2000年前でも貨幣が通用する地域はごく限られていました。日本の江戸時代においても、経済の基盤は「米」であり、その上に貨幣と信用が複雑に組み合わさった独特の仕組みが築かれていました。

この仕組みを利用し、為替や両替の手数料で巨額の富を築いたのが大阪の商人たちです。彼らの中から住友財閥鴻池財閥といった巨大な経済勢力が生まれました。特に鴻池は、戦後の財閥解体で銀行部門が三和銀行となり、その後、中部地方を基盤とする東海銀行と合併してUFJ銀行へと発展しました。現在では日本最大の銀行=三菱UFJ銀行に吸収合併されました。

     日本の「米本位制」社会

江戸幕府の支配の根幹は、土地の生産力を米の量で示す「石高制」でした。大名の領地も、武士の給料である俸禄も、すべて米を基準に計算されていました。武士は実際に米で給料をもらい、それを市場で換金して生活していました。この時代、米は単なる食料ではなく、経済の基準通貨のような役割を果たしていたのです。

一方で、都市部では貨幣の流通が盛んでした。複雑な貨幣制度は、両替商という新しい職業を生み出しました。

  • 蔵屋敷: 各地の大名が大阪や江戸に設け、年貢として集めた米を商人に売却しました。

  • 両替商: 米を売って得た代金を、金貨・銀貨・銭貨などの貨幣に両替しました。

特に大阪は「天下の台所」と呼ばれ、米の取引を通じて鴻池家や住友家といった大商人が台頭しました。彼らは単なる商人ではなく、金融業も営み、経済の要となっていきました。

     世界の穀物経済と貨幣の誕生

日本のように、他の古代文明穀物を中心に経済が回っていました。しかし、穀物には腐敗しやすい、運搬が困難という欠点がありました。この問題が、より耐久性と携帯性に優れた金属貨幣への移行を促しました。

古代文明の物品貨幣

  • 古代メソポタミア: 紀元前2000年紀には、大麦が主要な交換手段でしたが、同時にも重さを量る「秤量貨幣」として使われ始めました。

  • 古代エジプト: ナイル川がもたらす肥沃な土地で栽培された小麦が経済の基盤となり、労働者への給料としても使われました。

  • 古代中国: 紀元前17世紀頃の殷王朝では、海から遠くても手に入るタカラガイ宝貝)が物品貨幣として使われました。

     鋳造貨幣の発明と貨幣経済の確立

本格的な貨幣経済への移行は、鋳造貨幣の発明によって加速します。 紀元前7世紀頃、現在のトルコにあったリディア王国で、世界初の鋳造貨幣が作られました。この技術はギリシアからローマ帝国へと広まり、帝国全域で銀貨や金貨が大量に流通するようになりました。これにより、穀物の価値も貨幣を介して評価されるようになり、貨幣が経済の実権を握りました。

中国では、秦の始皇帝が「半両銭」を統一通貨として定めたことで、各地で使われていた多様な青銅貨が整理されました。続く漢の武帝が「五銖銭」を発行し、この貨幣は700年近く使われ続けることになります。このように、中国は統一王朝による強力な貨幣統一によって、穀物から貨幣へと経済を移行させました。

     物々交換から貨幣経済へ:農村の変化

都市部で貨幣が活発に流通する一方で、江戸時代の農村では物々交換が主流でした。

  • 自給自足の生活: 農民は米や野菜を自ら生産し、村の共同体内で分け合う自給自足の生活を送っていました。

  • 貨幣の不足: 金貨や銀貨は都市部での取引が中心で、農村にはあまり流通していませんでした。

しかし、江戸時代中期以降、農業技術の進歩や商品作物(菜種、綿花など)の栽培が広まると、農民は作物を売って現金収入を得るようになります。この変化が、農村に貨幣経済を浸透させ、やがて貧富の差が拡大するきっかけともなりました。



     明治維新:日本経済の大転換

長きにわたる米中心の経済を終焉させたのは、明治維新でした。新政府は二つの大きな改革を断行します。

1. 貨幣制度の統一

明治政府は、複雑だった江戸時代の貨幣制度を統一するため、1871年に新貨条例を制定。通貨単位を十進法の「円・銭・厘」に統一し、統一された金貨や銀貨を製造しました。

2. 地租改正

1873年には、米を物納する旧来の年貢制度を廃止し、地価の3%を現金で納める 地租改正を行いました。これにより政府は安定した財源を確保し、農民は税金を払うために米を市場で売って現金を得る必要が生じました。このことが、全国的な貨幣経済の浸透を決定づけました。

3.貨幣の統一

中央集権化には貨幣を統一し、価値を信頼できるようにすることは必須でした。これを行ったのが渋沢栄一でした。

 

           兌換紙幣

1. 兌換紙幣とは

  • 定義:兌換紙幣(だかんしへい)は、発行主体が「一定量の金や銀などの貴金属と交換します」と保証して発行する紙幣です。

  • 例:日本では1871年の新貨条例により金本位制が採用され、明治初期に金兌換紙幣が発行されました。

2. 廃止の理由

  1. 金の流出防止

    • 国際収支が赤字になると、金が海外に流出してしまうため、経済基盤が不安定になった。

  2. 経済成長に対応できない

    • 経済が拡大しても、発行できる紙幣の量は金保有量に制限される。

    • 特に戦争や恐慌時には紙幣を大量に必要とするため不都合。

  3. 国際的な動き

3. 日本における経緯

  • 1897年金本位制を確立(金兌換紙幣)。

  • 1917年第一次世界大戦中に金輸出を禁止(事実上停止)。

  • 1931年世界恐慌の影響で再度金輸出禁止。

  • 1942年:正式に兌換紙幣制度を廃止。以後は不換紙幣(信用による紙幣)へ移行。

4. 廃止後の通貨

  • 現在の紙幣は「不換紙幣」と呼ばれ、金や銀との交換保証はありません。

  • 通貨の価値は、発行国の信用経済力、および中央銀行の金融政策によって支えられています。

5. 通貨発行量の減少

  • 最近は、ネット取引やクレジット決済が普通となり、通貨の必要性が減っています。

  • 通貨発行には多大なコストがかかっています。

  • デジタル通貨で、発行コストが大幅に少なくなると考えられています。

 

         幸福と貨幣

「あなたは幸福ですか?」
人間が生きる目的とは何でしょうか。こうした究極の問いは、あまりに抽象的で答えるのが難しく、多くの人が考えながらも真正面から答えることを避けてきました。

もしその答えを「自分らしく自由に生き、充実した人生を送ること」と考えるならば、必ずしも貨幣そのものが直接的に関わるわけではありません。ところが現代社会では、「お金持ちになることが幸福につながる」という前提のもとに、多くの記事や情報が語られています。

一方、かつての社会では、物々交換や地域のつながりによる「貰い物」「施し」といった仕組みが生活の一部を支えていました。しかし、現代の経済学や統計において、こうした人と人とのやり取りは基本的に考慮されていません。貨幣を介した取引こそが経済活動の中心とされているからです。

        日本の経済とGNP

日本では長らく GDP(国民総生産) が、経済の成長や規模を示す代表的な指標として使われてきました。官僚や経済学者が「日本経済の規模」や「成長率」を語るとき、しばしばGDP総額が経済指標としています。

しかし、GDP総額が大きいからといって、国民一人ひとりが豊かであるとは限りません。人口が多ければ、それだけGDPも大きく見えるからです。

本当に大切なのは、一人当たりGDP です。
これは国全体のGDPを人口で割ったもので、国民一人あたりがどれくらいの経済的価値を生み出しているか、そしてどれだけの生活水準を享受できるかを示しています。

例えば、同じGDPの規模であっても、人口が少なければ一人当たりは高くなり、逆に人口が多ければ低くなります。つまり、国全体の「規模」よりも、一人ひとりの「豊かさ」に近い指標なのです。

ここで見えてくるのは、官僚・政治家や経済学者の多くが、「国民」でなく「国家」を第一に考えているということです。国民にとって大切なのは「自分たちの生活がどれだけ豊かになるか」であり、そこには国家の論理と生活者の実感とのズレがあります。

これでは国民が豊かにはなれないように思いますが、多くの国民は彼らを選び、同調しています。

                      まとめ

貨幣の価値は、もともとその希少性に依存していました。しかし、近代以降は発行主体である国家や政府の信用を基盤とするようになりました。金や銀との兌換性を失った紙幣は、特に米国によって世界的に定着しました。その背景には、米国が経済力や軍事力で圧倒的な影響力を持っていたことがあります。

米ドルは基軸通貨として、発行するだけで国際取引に利用される利点を持ちます。そのため米国は通貨発行を通じて大きな利益を得られますが、その維持には軍事力や国際機関への拠出といった負担も伴います。近年では、こうしたコストを軽減するために他国にも分担を求め、保護主義的な関税政策(いわゆる「トランプ関税」など)につながったと考えられます。ただし、その利益の配分は米国中心であり、結果として国際社会における支配的立場を維持しています。

一方、日本の歴史を振り返ると、江戸時代の経済は「米本位制」と貨幣経済が複雑に共存するユニークなものでした。年貢や俸禄は米で支払われる一方、都市部では金銀銅貨が流通していました。これは、世界的に貨幣経済が拡大していく中で、日本が過渡期にあったことを示しています。明治維新を契機に、日本はこの「穀物経済」から脱却し、近代的な「貨幣経済」へと本格的に移行しました。その延長線上に、現在の金融・通貨システムがあります。

貨幣年表

年代 地域 出来事
紀元前3000年頃 メソポタミア 銀の秤量・穀物による価値交換
紀元前2500年頃 エジプト 金や銀の装飾品が交換手段となる
紀元前1500年頃 中国 青銅貨の使用開始
紀元前1000年頃 インド 銀の秤量貨幣使用
紀元前7世紀 リディア(小アジア 世界最初の金属貨幣(エレクトロン貨)鋳造
紀元前3世紀 ローマ・中国 国家による統一貨幣(ローマデナリウス、中国秦半両銭)
紀元1世紀 ローマ帝国・中国漢王朝 貨幣経済が帝国全体に普及
7世紀 イスラム世界 ディナール金貨・ディルハム銀貨が広く流通
11世紀 中国(宋) 世界初の紙幣「交子」登場
13世紀 モンゴル帝国 モンゴル帝国が紙幣「交鈔」を広域で流通させる
17世紀 ヨーロッパ 金銀複本位制・中央銀行の成立
19世紀 世界各地 金本位制確立
20世紀前半 主要国 管理通貨制度へ移行
20世紀後半 世界 クレジットカード・電子マネー登場
21世紀 世界 暗号資産・デジタル通貨の普及
日本    
年代 貨幣  
8世紀頃 和同開珎(最初の流通貨幣)  
10世紀頃 物品貨幣(米・布・銭など)  
12世紀頃 宋銭の輸入と流通  
戦国時代 金銀の使用、地域ごとに異なる通貨  
江戸時代 金銀銅の三貨制度、小判・丁銀・銅銭  
明治4年(1871) 新貨条例により円・銭・厘が制定  
明治30年(1897) 金本位制の導入  
昭和34年(1959) 百円硬貨発行(銀貨→白銅貨)  
昭和57年(1982) 百円硬貨発行  
平成11年(1999) 2000円札発行  
平成14年(2002) ICカード電子マネー登場  
令和4年(2022) 新しい紙幣デザイン発表(2024年発行予定)  

 

一人当たりGDP

  名称 地域
1位   ルクセンブルク 138,634 ヨーロッパ
2位   アイルランド 106,456 ヨーロッパ
3位   スイス 104,523 ヨーロッパ
4位   シンガポール 90,674 アジア
5位   アイスランド 87,205 ヨーロッパ
6位   ノルウェー 86,611 ヨーロッパ
7位   アメリカ 85,812 北米
8位   マカオ 72,907 アジア
9位   デンマーク 72,042 ヨーロッパ
10位   カタール 71,583 中東
11位   オランダ 68,393 ヨーロッパ
12位   オーストラリア 66,248 オセアニア
13位   サンマリノ 60,263 ヨーロッパ
14位   スウェーデン 57,625 ヨーロッパ
15位   オーストリア 56,915 ヨーロッパ
16位   ベルギー 56,271 ヨーロッパ
17位   ドイツ 54,990 ヨーロッパ
18位   カナダ 54,473 北米
19位   イスラエル 54,192 中東
20位   香港 54,035 アジア
21位   フィンランド 53,326 ヨーロッパ
22位   イギリス 52,648 ヨーロッパ
23位   アラブ首長国連邦 48,830 中東
24位   ニュージーランド 48,310 オセアニア
25位   アンドラ 46,359 ヨーロッパ
26位   フランス 46,204 ヨーロッパ
27位   マルタ 43,992 ヨーロッパ
28位   イタリア 40,224 ヨーロッパ
29位   キプロス 38,625 ヨーロッパ
30位   バハマ 36,167 中南米
31位   韓国 36,129 アジア
32位   スペイン 35,092 ヨーロッパ
33位   スロベニア 34,117 ヨーロッパ
34位   ブルネイ 34,045 アジア
35位   台湾 33,437 アジア
36位   日本 32,498 アジア
37位   クウェート 31,641 中東
38位   チェコ 31,543 ヨーロッパ
39位   エストニア 31,174 ヨーロッパ
40位   ガイアナ 30,962 中南米
41位   サウジアラビア 30,746 中東
42位   リトアニア 29,339 ヨーロッパ
43位   バーレーン 29,036 中東
44位   ポルトガル 28,918 ヨーロッパ
45位   スロバキア 25,925 ヨーロッパ
46位   ポーランド 24,810 ヨーロッパ
47位   ギリシャ 24,716 ヨーロッパ

宗教とは何か その功罪

         はじめに

宗教とは、人間が生み出した「物語=フィクション」でありながら、これほど多くの人々が長い歴史の中で共有してきました。そこには、宗教が人間にとって根源的な意味を持ち続けてきたこと、そしてホモ・サピエンスが地球上で最大の集団を形成し得た特質と深く結びついていることが示されています。

本ブログでは、こうした観点から宗教を捉え直し、その功績と弊害の両面について考察していきたいと思います。

古代において、人間と自然が一体であったという考えは、アニミズム(精霊信仰)として現代の学問で説明されています。この考え方では、自然界のあらゆるものに霊的な力が宿るとされ、人間は自然と不可分な存在と捉えられていました。

          自然観と生存戦略

古代の人々にとって、自然は今よりもはるかに直接的に生活を左右する存在でした。日照りが続けば作物は枯れ、嵐が来れば家や村が被害を受ける。地震や暴風雨もまた、容赦なく人々を襲いました。これらの現象は、生きるか死ぬかを決める要素そのものであり、古代人は自然のわずかな変化から未来を読み取り、生物の目的=生き延びる術を磨いてきました。他の生物と違って、私たちは、非常に複雑な思考回路を手に入れていました。その結果「死」を予知するようになりました。

こうした背景のもと、狩猟採集社会にはその怒りを鎮めるために、祭祀や儀式が行われました。アニミズムは単なる迷信ではなく、このような生存戦略の一環として、人々の生活に深く根づいていたのです。つまり、生活習慣と分かち難いものでした。日本の「八百万の神」や世界各地の先住民族や古代人の精霊信仰は、その表れといえます。

     現代との視点の違い

農耕社会の始まりは、人々が自然を「利用する対象」として捉える転機となりました。収穫を増やすために土地を耕し、肥料を施しました。治水や灌漑を行うためには、多くの人が力を合わせました。効率よく力を合わせるためにはリーダーが必要となり、身分が生まれました。これが中央集権国家を生みました。

この灌漑や治水は文明にまで発展し、ピラミッド・水道橋・コロッセオといった巨大建造物や、兵馬俑のような膨大な焼き物を生み出しました。さらに産業革命以降は重機の開発により、自然の改変は一層大規模になっていきました。

ここで、自然の一部として、洞窟などに住んでいた人から、植物の葉や皮と毛皮などで作った住居ができ洗練されて行きました。

一方で、現代の私たちは科学を通じて自然を分析し、予測し、制御しようとします。しかし古代の人々にとって自然は、人間の力を超えた神秘そのものでした。人間はその大きな循環の一部にすぎず、自然と一体であるという感覚がごく当たり前だったのです。

雷雨や稲妻の轟き、地震や暴風の破壊力は、今もなお恐ろしい現象ですが、科学的な説明を持たなかった古代人にとっては「霊力の顕れ」にほかなりませんでした。予測可能なものも一部あったとはいえ、不可知の自然の前では畏敬の念を抱かざるを得なかったのです。

     アニミズム ― 精霊信仰の原型

古代の人々は、岩や木、川や山、動物、さらには風や雷といった自然のあらゆる存在に「魂」や「霊力」が宿ると考えていました。それらは人格をもつ存在として認識され、人と対話や交流が可能な対象とされたのです。祭祀や儀式は、そうした存在と良好な関係を築くための営みでした。

この時代には、まだ「宗教」という抽象的な概念はありません。アニミズムは日常に溶け込み、人々の行動や精神を支える「世界の仕組み」として機能していました。現代の言葉でいえば、それは自然や物と人との関係を体系化した「システム」に近く、後に宗教と呼ばれる思想体系の原型でもあったのです。

しかし農耕社会が始まると、自然は単に畏れる対象から「改変する対象」へと変わっていきます。土地を耕し、水を引き、収穫を得る営みの中で、自然を操作する人間の役割が強調されました。やがて宗教の中にも、この変化が反映されていきます。たとえばキリスト教では、人間は神によって選ばれ、自然を含む世界の支配者であると位置づけられました。

これは一例にすぎませんが、日本神話をはじめ多くの神話においても、自然は人(あるいは神)によって改変されるものとして描かれています。こうしてアニミズム的な自然観は、農耕社会や宗教の発展の中で「人が自然を変える」という視点へと移り変わっていったのです。

      豊穣と循環の宗教観

農耕社会の成立によって、人々の暮らしは雨や日照、肥沃な土といった自然の恵みに大きく依存するようになりました。そのため、豊穣を祈る祭りや儀礼は共同体にとって欠かせないものとなり、宗教的な中心的役割を担っていきます。

農耕では土地の肥沃さが収穫を左右しました。草木や人糞といった手近な肥料を用いることで土地を改良し、より多くの収穫を得る工夫が生まれます。やがて土地は単なる生活の場ではなく「所有すべき資源」として捉えられ、世代を超えて受け継がれる「祖先伝来の土地」という意識へとつながっていきました。

また、春に種をまき、秋に収穫するという農耕のリズムは、人々に季節の循環を強く意識させました。冬に枯れた植物が春には再び芽吹く姿は、人間の死と再生を想起させ、生命そのものも再生する思われました。「死」は未知なるもので、避けられない物かと世界各地で、努力しました。キリスト教ではキリストの復活となり、日本では天照大神の再生として、日食現象が使われているいます。ほとんどの神話には「死」と避けようよしたことが載っています。

こうした背景のもと、死と再生、そして季節の循環が信仰体系に組み込まれ、祖先や神と人間とが生命の営みの中で結びつくという宗教観が形づくられていきました。

        神話の形成と発展

人間の集団にとって、自らの来歴を語り継ぐことはアイデンティティの基盤となります。しかし、集団が大きくなれば分裂のリスクが高まります。自然状態で安定的に維持できる規模は「ダンバー数」と呼ばれる約150人が限界と考えられています。

この制約を超えて集団を維持するため、人々は内部の結束を強め、「味方」と「敵」を区別するようになりました。対立や戦いが生まれ、多人数を糾合できる集団のほうが優位に立つようになると、複数の集団を結びつける仕組みが必要となったのです。

そこで生み出されたのが、「自分たちは共通の偉大な祖先の末裔である」という物語でした。この「来歴を語る物語」こそ神話であり、広域の集団に共通のアイデンティティを与えました。また、戦いには死が伴いますが、その恐怖を乗り越える上でも神話は有効でした。宗教は死の恐怖を和らげ、乗り越えるための力を与えたのです。

文字のない時代、神話は口承によって伝えられました。そのため比喩や象徴を多用したストーリーが工夫され、覚えやすく語り継がれました。やがて比喩は独り歩きし、世代を経るうちに本来の象徴性は薄れ、神話はしだいに「事実」として語られるようになっていったのです。

         世界宗教

古代の宗教は、それぞれの地域や民族に根差して成立し、特定の人々を特別視するものでした。しかし、この仕組みには限界と矛盾がありました。宗教は共同体の結束を強める一方で、外部の人々を排除する性格をもっていたのです。ところが、宗教の理念として「神の前ではすべての人が等しく救われるべきだ」という考えも同時に存在しました。この矛盾を乗り越える形で登場したのが、いわゆる「世界宗教」です。

キリスト教イスラム教・仏教がその典型であり、特定の民族や地域に限定されず、広い範囲へと信仰を広げました。現在の推定信者数は、キリスト教が約23億人、イスラム教が約20億人、仏教が約3億2千万人とされています。また、地域宗教の中ではヒンドゥー教が最大で、約12億人の信者を持つといわれています。

これらの宗教が広がった背景には、いくつかの共通点があります。

普遍的な教え
民族や文化を超えて、誰もが救済や悟りに至れるという普遍性を強調しました。

積極的な宣教活動
キリスト教の宣教師、イスラム教の布教とジハード、仏教僧の伝道など、外部に広める力を備えていました。

地域文化の取り込み
広がった先で現地の風習や信仰を柔軟に吸収しました。

  • キリスト教はヨーロッパの土着の祭りを取り込み、クリスマスや復活祭を整えました。

  • イスラム教はペルシャ、トルコ、インド、東南アジアで多様な文化と融合しました。

  • 仏教はインドから中国、日本へと伝わる過程で、道教神道と混ざり合いました。

宗派の多様性
普遍性を保ちながらも地域文化を反映し、多様な宗派が生まれました。キリスト教カトリックプロテスタントイスラム教のスンニ派シーア派、仏教の上座部仏教大乗仏教がその代表例です。

このように、世界宗教は単なる「一つの教えの押し付け」ではなく、普遍的な原理を持ちながら現地文化を柔軟に取り込み、変化していくことで広大な地域に根づいていったのです。

          共存した神道と仏教

日本の宗教文化は、仏教と神道が複雑に絡み合い、互いに対立するのではなく共存しながら発展してきました。その歴史的背景と、現代に見られる特徴を整理してみます。

仏教の受容と「檀家制度」

江戸時代、幕府はキリスト教を厳しく禁じ、すべての人々に特定の寺院の檀家となることを義務づけました。これが「檀家制度」です。住民を管理する戸籍のような役割を果たし、仏教は人々の生活に深く根づくことになりました。

一方で、地域社会には氏神を祀る神社が存在し、祭祀を通じて共同体が維持されていました。人々は仏教と神道を用途や役割によって使い分け、両者を自然に生活に取り入れてきたのです。

明治維新と「国家神道

19世紀後半、西欧諸国がキリスト教を基盤に中央集権国家を形成していたことに対抗し、明治政府は神道天照大神を中心とする一神教的な体系として再編しました。天皇をその唯一の末裔と位置づけたのが「国家神道」です。

国家神道では、天皇の正統性を示すために男系継承が強調されました。この思想は太平洋戦争期に「国体を守るためには個人を犠牲にしてもよい」という精神に結びつき、敗戦局面でも降伏を拒む国民意識の基盤となりました。しかし戦後、国家神道は解体され、神道は再び地域社会や日常生活に根ざす存在へと戻っています。

現代に受け継がれる宗教観

今日の日本では、多くの人々が仏教と神道の両方に違和感なく関わっています。

  • 初詣:新年には神社を訪れ、一年の幸せを願う

  • 法事:先祖供養ではお坊さんがお経をあげる

  • お賽銭:寺でも神社でもお賽銭をあげ、祈願する

また、神社の「二礼二拍手一礼」という参拝作法も、古くからの伝統が戦後に広く定着したものです。こうして日本人は、生活の場面ごとに仏教と神道を自然に使い分けています。

多神教的で寛容な「日本型宗教文化」

欧米の先進国ではキリスト教が多数派ですが、日本の宗教文化は多神教的であり、他宗教にも寛容です。これは、古来からの自然崇拝や祖霊信仰といったアニミズム的な考え方に加え、仏教が地域ごとの神々や風習を柔軟に取り込んできた歴史によるものです。

その寛容さは、クリスマスや結婚式といったキリスト教の行事を積極的に取り入れる姿にも表れています。こうした文化の受容と融合の積み重ねこそが「日本型宗教文化」といえるでしょう。

一方で、靖国神社参拝をめぐる国内外の議論は、日本人の独特な宗教観や歴史観が他国から理解されにくいことを物語っています。

       さいごに

現代では科学的思考が発達し、宗教を客観的に分析することが可能になりました。宗教学はその典型例といえるでしょう。しかし、かつて宗教は単なる「信仰」ではなく、自然や人間の関係を説明する「システム」として機能していました。農耕社会の成立は、人々が自然を改変し始める契機となり、アニミズムはやがて独立した宗教へと発展し、大きな体系を形づくっていったのです。

また、現代において宗教は「死」への恐怖を和らげ、人生に意味を与える大きな役割を担っていると考えられます。

私たちは、宗教を歴史的な流れの中で捉え、その社会的な役割や文化的背景を理解することが大切です。宗教を学ぶことは、過去の人々の世界観を知るだけでなく、現代社会における価値観や生き方を考える上での手がかりにもなるのです。

 

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ユベル。科学的思考は古代ギリシャで芽生え、それを尊重した古代ローマ帝国を通じて、キリスト教とともにヨーロッパへと広がっていきました。まだ科学が十分に発達していなかった古代においては、自然現象には不可思議なことが多く、それを理解しようとしたのがアニミズムでした。とりわけ「生と死」というテーマは、私たちホモサピエンスにとって根源的な問題であり、それを乗り越えようとする営みが宗教だったのです。宗教は人々の生活を支えるだけでなく、戦いの場においてもその存在意義を発揮しました。

今回の考察を通じて、改めて宗教が私たちの生き方や世界の歴史に深く関わっていることを感じます。とりわけ、G7の中でも独自の宗教観を持つ日本の視点は、多様な価値観が交錯する現代社会において、これからも重要な役割を果たしていくことでしょう。

 

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キリスト教にみた「ヨーロッパ型」と「アメリカ型」

観点 ヨーロッパ型 アメリカ型
基本構図 伝統・文化に溶け込んだ宗教(クリステンドムの遺制) 自発的結社としての宗教(信教の自由市場)
主な宗派分布 地域ごとに伝統宗派カトリックルター派/改革派/英国国教会正教会 細分化した宗派(バプテスト、メソジスト、長老派、ペンテコステ福音派等)
信仰スタイル 秘跡典礼中心、文化的信者も多数 回心・個人決断を重視、証し・説教・賛美が中心
政教関係 国家教会・協約・歴史的特権が残る一方、社会は世俗化 法的政教分離だが、公共空間での宗教発話・動員は活発
社会関与 福祉・教育で歴史的役割、近年は文化遺産 教会が地域福祉・政治運動のハブ(公民権、プロライフ等)
文化取り込み 土着祭礼・聖人・巡礼などを包摂 ポップカルチャー・メディアと融合メガチャーチ、放送伝道)
現在地 参加率低下、宗教多様化・少数派の台頭 参加率の地域差大、Nones増と福音派の動員力が併存

ユダヤ教は、ハラーハー(律法に基づく生活)と共同体教育を通じて独自のアイデンティティを維持してきました。20世紀のホロコーストという悲劇とイスラエル建国は、ディアスポラ社会における宗教意識を大きく再編させる契機となりました。特に、第2バチカン公会議の宣言『我らの時代(Nostra Aetate)』以降、カトリックユダヤ教の関係は大きく改善されました。今日では、米欧においてユダヤ人は学術・文化・経済の各分野で大きな影響力を持ち、「ユダヤキリスト教的価値」という言葉が公共の場で用いられるようになっています。ただし、その評価については意見が分かれています。また、ユダヤ教キリスト教の信仰においては、聖書を歴史書として読み、神の言葉に誤りはないと考える人も少なくありません。

ヨーロッパの社会は「伝統を取り込み制度と結びつける」ことによって骨格を形成し、近代以降は世俗化と多宗教化の方向に進みました。一方、アメリカは「個人が信仰を選び、そこから動員される」宗教を基盤に置き、自発的結社が社会を動かすダイナミズムを保持しています。両者に共通する課題として、21世紀には宗教の公共性をどのように再定義するか、すなわち少数者の権利、多文化共生、AIや生命倫理への応答といったテーマが浮上しています。

ただし、ヨーロッパにおいては旧約聖書を神話とみなし、現実の世界と切り分けて捉える人が多いのも特徴です。

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日本ではクリスマスが盛大いわわれていますが、キリストが12月25道に生まれたとする証拠は何もありません。

クリスマスはほとんどのキリスト教宗派で重要な祝日ですが、必ずしも「最大のイベント」とは限りません。

宗派 クリスマスの位置づけ 最大の祝祭
カトリック 大きな祝日だが、誕生より復活が核心 復活祭(イースター
正教会東方正教会 クリスマスも祝うが重視度は低い 復活祭(イースター
プロテスタント 宗派により差はあるが復活祭を重視。近代以降は文化的にクリスマスが拡大 復活祭(イースター
一部の教派(例:エホバの証人 クリスマスを祝わない

キリストの誕生日(12月25日)は、聖書には明記されていません。

この日付は後に定められたもので、暦の上でも意味があります。

12月25日の暦的背景

ローマ暦(ユリウス暦
古代ローマではユリウス暦を使っていました。12月25日は「冬至の時期」にあたり、太陽が再び力を増す象徴の日でした。また、ミトラ教などでも不滅な太陽(Sol Invictus)」を祝う祭が12月25日に行われていました。これをキリスト教が取り込み、キリストの誕生祭としたと考えられています。

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      宗教を持たない種族はいるか

現在確認されている限り、動物の中に「宗教」を持つ種族はいません。ただし、チンパンジーやゾウが「死者に対して特別な行動(弔いのような仕草)」をすることは観察されており、宗教の萌芽のような行為と見る研究者もいます。

人類(ホモ・サピエンス)の歴史を見ると、宗教的な信仰や儀礼はほぼ普遍的に存在しました。洞窟壁画や墓の副葬品などからも、死や自然に対する「超自然的な解釈」をしていたことが分かります。
したがって「宗教を持たない種族」と呼べる人間集団はほとんどなく、宗教を持つことが人間の特徴の一つと考えられます。

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   付録:主要年表

経済システム概観:安倍政権への道

        はじめに

日本経済は長年にわたり「ゼロ金利」という異常な環境に置かれてきました。近年こそ名目金利はわずかに上昇しましたが、物価上昇率を差し引いた実質金利はむしろマイナス幅を拡大させています。つまり、銀行にお金を預けてもその価値は減り続けるのです。

資本主義とは本来、「お金がお金を生む仕組み」によって、人々が明日への期待や豊かさを実感できる経済システムです。しかしゼロ金利下では給与は上がらず、幸福感を得ることは難しくなります。加えて、社会保険料や税負担の増加が手取り収入を減らし続けています。社会保障費増加の原因追及や、名目金利の上昇を喜ぶ記事は見かけますが、根本的な構造問題にはなかなか目が向きません。

この状況の出発点は、米国の「双子の赤字」が問題視され始めた時期にさかのぼります。1985年のプラザ合意は、経済の歪みを是正するつもりが、日本経済をバブル景気へと導き、その崩壊によって30年以上にわたる低成長と賃金停滞を招きました。近年では円高も重なり、実質賃金はさらに減少しています。この間、高齢化と少子化が急速に進み、社会保険財政は深刻な危機に直面しています。

米国でトランプ政権が誕生したり、世界各地で、ポピュリズム的手法で極右と言われる人たちが支持を集めているのも、こうした経済不安や既存システムへの不信が影響しています。
個別の問題もそれぞれ大きく複雑ですが、俯瞰してみると、より大きな経済システムそのもが疲弊しているのが見えてきます。私はそれを長期に捉え、その一環としての30年以上の日本の不況と安倍政権へと至った道を分析しようと、このブログを作りました。

                           過去の事例

第一次世界大戦(1914〜1918年)は、単なる軍事衝突ではなく、社会構造や人々の思想・価値観にも大きな影響を与えました。

ヨーロッパの階級社会

  • 上流階級:貴族や富裕な資本家、地主が政治・軍事の主導権を握る。
  • 中産階級:小規模商人、官僚、専門職。戦争では徴兵や戦費負担に苦しむ。
  • 労働者階級:工場労働者、農民など。戦争が始まると戦争経済や動員で影響を受ける。

国家と国民意識の形成

ナショナリズム(民族・国家への忠誠心)が強くなり、兵役を「義務」と考える傾向が出来ました。

帝国主義の競争により、国民は自国の利益や威信のために戦争に動員され、安い労働力に支えられ、総力戦を可能にしました。

社会構造に与えた影響

動員と社会の一体化が進みました。その結果男性は前線に送られ、女性が工場や農業に従事することで、家族や地域社会の役割を分担するようになりました。

国家の統制下で物資の配給制が導入され、日常生活に国家の影響が浸透しました。

階級間の緊張

軍隊では、貧しい労働者や農民は前線で命を張る一方、上流階級は比較的安全な役割を担うことが多く、不満が蓄積しました。その結果、戦後には革命や労働運動の高まりにつながりました。(例:ドイツやロシア)。

経済構造の変化

戦争経済のために工業生産が急増し、兵器産業や化学産業が発展しました。

戦争債務やインフレーションにより、中産階級の生活が圧迫されることになりました。

愛国心と犠牲意識

初期は「祖国のために戦う」という愛国心が強く、国民全体が戦争を支持する傾向がありました。このことで、安い労働力が得られることになりました。

しかし、戦争の長期化・大量死で幻滅感が広がりました。

戦争の現実と失望

塹壕戦や毒ガス、機関銃による殺戮で、戦争が「栄光」ではなく、極めて悲惨なものと認識されました。

戦争体験を描いた文学・芸術(例:第一次世界大戦文学の「失われた世代」)が登場しました。

平和意識と社会改革の要求

戦争体験から、平和主義や社会改革を求める声が増加しました。

女性参政権の拡大、労働条件改善、社会保障制度の整備などの動きが加速しました。

戦後の社会構造の変化

帝政は崩壊し、新国家が誕生しました。

ロシア帝国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、新しい共和国や社会主義国家が登場あいました。

階級・性別役割の変化

女性の社会進出は戦争中の役割を契機に進みました。

騎士など兵隊に変わり、徴兵制で、庶民が兵士となったことで、力を得て、労働運動や社会主義運動が活発化しました。政権としても労働者の意見が無視できなくなりました。

国際社会への影響

大戦で疲弊した各国は、国際連盟を設立したり、軍備に上限を設けるなど、戦争防止や外交の新しい枠組みを模索して行きました。

戦争の悲惨さが世界的な平和意識に影響

第一次世界大戦は、国家・階級・性別・経済・思想のあらゆる側面で社会構造を揺るがし、人々の意識や価値観を大きく変えました。戦争を経験した世代は、その後の文化や政治に深く影響を与えています。

そんな中で、ニューヨーク市場での株価は暴落しました、1929年の世界恐慌です。戦場にならなかったアメリカは、生産設備が無傷でした。そのため、戦場となったヨーロッパに変わって、生産することとなり、好景気であったアメリカでしたが、大量生産によって供給過剰になりました。株価暴落だけでなく、それまでの経済体制の行き詰まりでした。世界規模の金融危機へ波及し、世界恐慌をきっかけに「今の資本主義のままでは不安定」という認識が広がり、各国は異なる方向で修正を試みました。

西欧諸国は、ケインズ主義経済を採用し、 国家が積極的に経済に介入(公共事業・社会保障・金融政策)して需要を創出し、乗り越えていきました。これは、修正資本主義と言われ、大きな政府を作る事になりました。

ロシアと周辺諸国は、共産主義による、計画経済で生産のコントロールする事を採用し、 その組織として、ソビエトを作り連邦化しました。この制度では、国家権力が非常に強大になる必要がありました。ソ連は「恐慌に無縁の国」として宣伝し、資本主義と対立して行きました。

一方。生活苦や将来不安は、ドイツ・イタリア・日本では ファシズム軍国主義を台頭させ、第2次世界大戦へ突き進みました。

昭和恐慌 - Wikipedia

ヴァイマル憲法 - Wikipedia

日本の軍国主義大正デモクラシーを出発点としています、ナチスドイツもワイマール憲法から生まれました。いずれも民主主義の中で出発しました。集団心理が働い亜結果です。現在に生きる我々も早いうちに、その目を積んでおかないといけません。早期に積もうとする行為は時々大きな批判を受けますが、放っておけば手遅れになります。

ソ連を中心に共産主義体制を強化し、西側諸国は修正資本主義を採用しました。それが戦後の冷戦(共産主義陣営と自由主義陣営に分かれて戦う。)につながりました。共産主義者は国際協調を謳い。自由主義者は、市場の拡大を狙いました。

共産主義 - Wikipedia

まとめれば、「1929年の恐慌が資本主義の限界を露呈させ、修正資本主義と共産主義の分岐点となり、第2次世界大戦後の冷戦に至った」と言えます。

第一次世界大戦が残したもの

ナショナリズムの誕生と国民国家の形成: 民族主義ナショナリズム)は、一般的にフランス革命ナポレオン戦争を経て確立されたと考えられています。それまでの戦争は君主や貴族の利害が中心でしたが、ナポレオン戦争では「フランス国民」という意識が兵士や国民に浸透しました。これにより、国家のために戦うという意識が生まれ、国民国家が形成されていきました。

総力戦と国民の動員: 第一次・第二次世界大戦のような総力戦では、兵士だけでなく、銃後で働く労働者、食料や物資を節約する国民など、国全体が戦争遂行体制に組み込まれます。このような状況下で、国民を一つにまとめ、犠牲を厭わないようにするために、民族主義が利用されました。「自国を守るため」「民族の誇りを守るため」といったスローガンは、国民の強い連帯感と敵国への敵愾心を煽るのに効果的でした。

植民地での民族主義: 植民地でも、宗主国との独立戦争や抵抗運動を通じて民族主義が形成されました。共通の敵(宗主国)と戦うことで、異なる部族が「一つの民族」としてのアイデンティティを確立するきっかけとなりました。

第2次世界大戦でも、戦場とならなかったアメリカは、戦時特需によって一気に「世界の工場・銀行」となり、ヨーロッパ諸国に巨額の融資を行う立場へと変わりました。自由主義陣営のリーダーとして、圧倒的に強い経済規模となりました。

      米ドルの基軸通貨化と経済変化

ドルの基軸通貨
第二次世界大戦後、米ドルはブレトンウッズ体制のもとで「金と交換できる唯一の通貨」とされ、国際取引の決済において圧倒的な地位を占めるようになりました。各国の政府や企業は国際貿易や金融取引のためにドルを保有せざるを得ず、ドルは基軸通貨となりました。

1971年に米国は金との兌換を停止し、金本位制から管理通貨制度へ移行しました。これによりドルは「金の預かり証」から、米国政府の信用に基づく法定通貨へと変わり、中央銀行は金準備に縛られない通貨発行の自由を得ました。その結果、ドルは米国経済と軍事力を背景に、国際金融の中核として膨大に流通するようになりました。ドルの需要が増したという事で、供給量と需要量のタイムラグが大きくなりました。これが米政府の双子の赤字の処理を難しくしました。

現在、米国における貨幣は政府が発行し、紙幣はFRBが発行主体ですが、印刷自体は財務省印刷局が担い、法的には「FRBの負債」として存在しています。

 ブレトン=ウッズ会議/ブレトン=ウッズ体制

ブレトン・ウッズ協定 - Wikipedia

【ブレトンウッズ体制】目的や内容、問題点などわかりやすく解説│Web大学 アカデミア

米国経済の構造転換
米国は高コストな製造業では新興国と競争できないと判断し、ソフトウェアやITサービスなどの知識集約型産業へと軸足を移しました。ネットを中心としたデジタル技術を活用し、現地の人材を活かすビジネスモデルを構築することで、労働コストの高さを克服してきました。

ソフトウェアは開発に多大なコストを要するものの、一度完成すれば低コストで無限にコピー可能であり、利益率は製造業をはるかに上回ります。この仕組みにより、成功した企業には巨額の利益が集中し、多数のビリオネアが誕生しました。その一方で、従来の製造業に従事していた労働者は取り残され、賃金停滞や雇用不安に直面しました。こうした地域は「ラストベルト(Rust Belt)」と呼ばれています。

さらにラストベルトには、米国移民初期の価値観を重視する人々が多く、福音派や聖書無謬説が今なお息づいています。多くの日本人は笑うかもしれませんが、聖書から導かれた「地球は紀元前4004年10月23日(日曜日)の夜に創造された」という話は、彼らにとって信仰ではなく現実であります。そして、科学的な説明を「見てもいないのに事実だと思い込んでいるだけ」と退けます。聖書と矛盾する情報は「フェイクニュース」とされ、SNSを通じ拡散していくのです。こうして、多くの「陰謀論」や「都市伝説」が生まれました。

バイブル・ベルト - Wikipedia

反知性主義 - Wikipedia

         日本の対応

日本でもかつてはソフトウェアエンジニアリングの発展が見られました。しかし、行政はこうした変化を十分に理解・支援できず、むしろ芽を摘んでしまう結果となりました。これが長期不況を招いた一因であると考えられます。

一方、EUではマイクロソフトやアップルなどの巨大IT企業に対し、優越的地位の乱用によって不当な利益を得ているとして、繰り返し訴訟や規制が行われています。ところが日本では、ほとんどこうした動きが見られません。その背景には、行政機関の上層部にソフトウェアやデジタル技術に精通した人材が不足していることがあると思われます。

日本の官僚組織には、変化を嫌う体質や、「難しいことは混乱を招くから避けるべきだ」という文化的傾向があります。その結果、新しい技術や産業構造の変化に柔軟に対応できず、国際的な競争力を失う一因となっています。

近年、日本の歌手やアスリートでも世界的に活躍する人々が増えてきました。これは単なる個人の才能だけでなく、グローバル化SNSの影響が大きいと考えられます。SNSを通じて、国境を越えて情報や評価が直接共有され、国内にとどまらず世界的な舞台に直結する環境が整ったからです。

この仕組みの基盤には、インターネットを中心としたソフトウェアエンジニアリングがあります。つまり、情報技術の発展が文化やスポーツの分野にまで波及し、日本から世界へと活躍の場を広げる土壌を作り出しているのです。

Winny事件 - Wikipedia

プラザ合意 - Wikipedia

経済 - Wikipedia

     経済システムと政治情勢の概観

1. 資本主義の基本構造

資本主義は「お金(資本)がさらにお金を生み出す」仕組みによって、人々が「昨日より今日が良くなった」と実感できる経済システムである。

2. 好不況の循環

しかし需給予測は難しく、供給過剰になれば価格が下落し、企業は損失や倒産に追い込まれる。このため景気は好況と不況を繰り返す。

3. マルクスエンゲルスの批判

19世紀、マルクスエンゲルスは科学的分析を取り入れ、現体制の矛盾を体系的に批判。社会構造そのものを転換する「革命」を提唱し、既存のパラダイムを根本から変える必要を説いた。

4. 修正資本主義の登場

既得権益層は革命を避けるため、資本主義を一部修正。第二次世界大戦後、連合国側は民主主義と格差是正を理念とし、累進課税や再分配を軸にした「大きな政府」モデルを構築した。

5. 大きな政府から小さな政府へ

大きな政府格差是正に一定の効果をもたらしたが、同時に汚職や非効率の温床にもなった。この批判から小さな政府志向が広がり、累進性は弱まり、格差が再び拡大した。

6,ベルリンの壁共産国家の崩壊

ベルリンの壁崩壊は、ソ連の弱体化と東欧諸国の民主化の動きが結びついて起こった出来事でした。それは単なる物理的な壁の崩壊ではなく、冷戦というイデオロギーの対立構造が終焉を迎えたことの象徴です。この出来事を契機に、東欧諸国の共産主義体制が次々と崩壊し、最終的には盟主であったソ連邦自身も崩壊へと向かいました。これにより、労働組合の意義は小さくなり、また、各国政権も労働者の存在を意識しなくなりました。このことで経済格差は拡がりました。

7. 人々の不安の増大

格差拡大に伴い、不安を抱える人々が増加。「癒し」を謳う施設が街に溢れ、FIRE(早期リタイア)や「静かな退職」、引きこもりなど、社会との距離を置く生き方を選ぶ人も目立つようになった。

8. 新しい指導者と政党の台頭

こうした状況の中で、新しい指導者や新しい政党を求める声が高まり、「日本維新の会」以降、新興政党の数は増えている。

安倍内閣 - Wikipedia

7. 新しい指導者と政党の台頭

こうした状況の中で、新しい指導者や新しい政党を求める声が高まり、「日本維新の会」以降、新興政党の数は増えています。

 

        金利な見方

実質金利とは、概ね「名目金利-インフレ率」で表されます。
実質金利がゼロであれば、将来の購買力は現在と変わらず、生活水準も維持されます。
しかし、マイナスになると同じ金額で買えるものが減り、生活は貧しくなります。逆にプラスであれば、購買力が増し豊かになります。金利を考える時には実質金利で考え、名目金利は参考データとします。

下図を見ると、名目金利の上昇とともに実質金利はマイナスに転じ、日本国債も実質的にはマイナス金利です。
この状態では売上不振も当然であり、財務省が国民を軽視していると感じられます。今後は金利を引き上げ、需要が回復する水準を探る動きが予想されますが、金利上昇は国家財政を圧迫し、日銀保有国債価格下落を招くため、政策判断は難しいところです。

これほど状況が行き詰まっている理由は何か。私は、その原因が現政権の金融政策にあるとは思っていません。日本経済の衰退は、バブル崩壊により起きました。そして、バブル経済プラザ合意で始まったと言われています。この頃からの社会情勢を見ていきましょう。

       日本の経済な流れと安倍政権

1985年のプラザ合意により、急激な円高が進行しました。輸出産業への打撃を緩和するため、日本は金融緩和を行い、結果としてバブル景気を引き起こします。この時期、不動産や株式の価格は異常な高騰を見せ、「土地神話」や「株価永遠上昇説」が信じられていました。しかし、バブル崩壊後は資産価格が暴落し、日本は長期不況=「失われた30年」に陥ります。

バブル経済で税収が増えたため、竹下内閣は地方創生事業の資金として、地方自治体に一律1億円をだしました。

資本主義のタイムラグ

基軸通貨(米ドル)を発行するアメリカも、この資本主義の「行き詰まり構造」から逃れることはできません。基軸通貨は世界的な需要があるため、問題が顕在化するまで大きなタイムラグが生じます。バイデン政権もこの構造的問題を克服できず、その不満が政治的エネルギーとなって「トランプ現象」を生み出しました。

経済格差という資本主義のエンジン

資本主義は本来、格差をエンジンとして成長してきました。成功すれば利益を得て、失敗すれば市場から退出する。格差は競争の結果であり、効率化や革新の原動力となります。ただし、この仕組みはお金を使う事が、前提です。累進課税などによる再分配が不可欠で、格差を放置すれば経済的・社会的な不安定を招きます。20世紀までは労働運動によりある程度解消していましたが、ベルリンの壁が無くなり、ソ連邦を中心とした共産圏は崩壊しました、中国には市場経済の国となり、共産党独裁だけの権威コックとなりました、経済格差は著しく、平均輸入が少ないにも関わらず、ビオネリアの数は米国に次いでいます。

「小さい政府」と再分配機能の崩壊

近年は「小さい政府」志向が強まり、再分配機能が弱体化しました。その結果、資産を多く持つ人々は経済的な影響力=社会的影響力を強めています。これは単なる金持ちではなく、政治や世論、企業戦略にまで影響を及ぼす存在です。こうして超富裕層=ビリオネアが次々に誕生し、その存在が資本主義の新たなエンジンとなっています。

安倍晋三氏の政策

安倍政権は、国債発行によって景気を下支えしました。黒田日銀は、政府が発行するほとんど金利の付かない国債を長期にわたり大量購入し、財政面からも支え続けました。「異次元の金融緩和」とは「市場経済を無視して、金利が低い日本国債を買う」と言う意味です。
その結果、国債残高は異常な水準まで積み上がり、政策金利を引き上げれば既発国債が大幅に値下がりするため、金利を上げにくい状況になっています。

黒田東彦 - Wikipedia

安倍内閣 - Wikipedia

近年の物価高騰の主因は、経済的実力を超えた円安です。その背景には、特にアメリカとの金利差があります。円安は輸入物価を押し上げ、さらに昨年・今年の異常気象による不作が重なり、食料や日用品の価格が急騰しました。これにより庶民の生活は大きく圧迫されています。

もし耐えきれず金利を引き上げれば、国債利払い負担の増加に伴って公共サービスの削減や国民負担率の上昇を招き、国民生活をさらに苦しめます。その結果、財務省前での抗議デモが発生する事態となりました。

国など 政策金利
アメリ 4.25%–4.50%
イギリス 4%
カナダ 3%
ユーロ圏 2%
日本 1%

安倍晋三氏は、自著『美しい国へ』で掲げた理念をもとに政治を進めました。

第2次安倍政権、突然の幕引き 最長記録更新したばかり:朝日新聞

その過程で、自身に対するマスコミや専門家からの批判を「反日」として切り捨て、その論法を支える実動部隊を各分野で養成しました。
このネットワークは現在も機能し続けており、参政党の躍進や石破茂氏の退陣など、政界や世論に大きな影響を与えています。

安倍政策は、『美しい国へ』構想が主眼で、経済対策は二の次であった事が解ります。ですから、経済対策を期待していた人からは信頼されなくなった一方で、『美しい国へ』構想を支持する人からは絶賛されるのでしょう。

2024年の平均手取り給与に物価上昇率を加味すれば、昨年の平均給与はは1990年の80~90%になります。

        『美しい国へ』構想

安倍晋三氏は2012年(平成24年)12月26日 - 2020年(令和2年)9月16日まで、日本の首相を務めました。

安倍晋三氏に2006年の著書『美しい国へ』を発刊しました。その主な構成と内容を要約すれば以下になります。

目次構成

  • 第1章 わたしの原点
  • 第2章 自立する国家
  • 第3章 ナショナリズムとはなにか
  • 第4章 日米同盟の構図
  • 第5章 日本とアジアそして中国
  • 第6章 少子国家の未来
  • 第7章 教育の再生

要約

書籍は、「日本という国のかたちが変わろうとしている」という導入文で始まり、保守の理念、外交、安全保障、社会保障、教育、ナショナリズムを包括的に論じています

自立する国家構想
日本が「真に主権を有する国家」として自立し、国益を堂々と主張できる存在であるべきだと強く訴えています。

ナショナリズムと誇り
「真のナショナリズムとは排外主義ではなく、国を愛する健全な思い」を意味するとし、日本人が歴史や伝統に誇りを持つことの重要性を説いています。

対米同盟とアジア協調
日米同盟を基軸としつつ、アジア諸国との関係構築、特に「アジア太平洋民主主義G3+米国」(日本、インド、オーストラリア+米国)による対話体制の構想も提唱されています。

安全保障と北朝鮮対応
例えば、拉致問題に対する「経済制裁は、政権中枢への資金流出を止めるためだ」という戦略を示し、毅然とした姿勢を示しています。

少子化社会保障
深刻な少子社会の到来に対し、未来への備えとして教育や社会保障の再構築の必要性を訴えています。

教育の再生
教育の質低下や待機児童問題、学力低下、賃金格差に言及し、国家の将来を担う世代を育てる教育政策の重要性を強調しています。

評価・意義
読者レビューでは、「日本人の誇りと自信を取り戻すきっかけになった」「理想と現実を主体的に考えるようになった」といった声があります。また、アメリカインドの識者からは、安倍政権の外交戦略の原点と位置づけられることもあり、日本の戦略的な役割を再定義する一冊と評価されています。

まとめ

  • 保守の再定義:「真の保守」を追求し、国を愛することと排他主義を区別
  • 安全保障と外交:自立した国家の構築と、米国およびアジア諸国との協調を両立
  • 社会政策:少子高齢化への具体策、教育の刷新
  • 歴史認識と誇り:日本人が過去を否定的に捉えるのではなく誇りを持つ姿勢

首相としての施策は「美しい国」構想が主体であり、経済の立て直しは日銀任せであってことが解ります。そして、黒田総裁が「異次元の金融緩和」でそれを支えました。異次元と言うと新しい事を始めるような印象を持ちますが、市場を無視して、金利が付かない国債を買うというものでした。いわゆる「マネタリズム」です。これには、国内外からの支持もあったから可能でしたが、就任当初は2年で達成できるとしていたインフレターゲット2%は任期中達成できませんでした、

インフレ率とは「貨幣価値の下落」を示し、物価上昇率とは「物価そのものの上昇」を指します。しばしば混同されますが、給与の上昇と物価の上昇が同じであれば、生活水準は変化しません。ところが現在の日本では、実質給与や実質利息がマイナスとなっています。

インフレ目標を2%に設定しているのは、米国FRBの方針を参考にしたものです。この2%という数値は、物価と給与の上昇に一定のタイムラグがあることを前提にしており、安定的に維持されれば人々が大きく意識しない程度の水準とされています。

https://gendai.media/articles/-/75561#google_vignette

赤木ファイル開示 公文書改ざん最初の指示は「安倍晋三、安倍昭恵、麻生太郎」隠しだった(赤澤竜也) - エキスパート - Yahoo!ニュース

「森友」財務省 文書 改ざん問題 最新ニュース|NHK NEWS WEB

美しい国 - Wikipedia

安倍晋三 - Wikipedia

アベノミクス - Wikipedia

アベノマスク - Wikipedia

       まとめ

リフレ派経済学は「世の中に出回るお金を増やせば商業活動が活発になる」と考えます。実際には、資金の多くが経営者や企業の内部に蓄積され、必ずしも消費や生産性向上につながる投資に回っていません。その結果、都内の新築マンションは2億円近い価格となり、一般の家計からは手の届かない水準にまで高騰しています。

さらに、中国をはじめとする海外の富裕層が日本のマンションや賃貸物件を所有したり、リゾート開発に参入することが増えています。これは資本の流入という側面もある一方で、経済格差の拡大や、法制度を十分理解していない(あるいは意図的に無視する)投資行動を招き、地域社会に問題を生じさせています。

こうした状況は、単なるマネーの供給拡大だけでは解決できません。我が国は、資金の流れが健全に実体経済へと回る仕組みを整備し、外国資本の流入に対しても社会全体の利益と調和するルールを設ける必要があります。新しい21世紀の経済システムとして、単なる金融緩和に頼るのではなく、労働・生活・地域社会を基盤とした持続可能な経済のあり方を模索していくことが求められます。

 

---------------資料--------------

2025年フォーブス誌の長者番付上位30です。

順位 名前 関連 年齢 資産額
(10億$)
資産額
(兆円)
1 イーロン・マスク テスラ、SpaceX アメリ 53 342 49.59
2 マーク・ザッカーバーグ Facebook(Meta) アメリ 40 216 31.32
3 ジェフ・ベゾス Amazon アメリ 61 215 31.18
4 ラリー・エリソン Oracle アメリ 80 192 27.84
5 ベルナール・アルノー LVMH フランス 76 178 25.81
6 ウォーレン・バフェット バークシャー・ハサウェイ アメリ 94 154 22.33
7 ラリー・ペイジ Google アメリ 52 144 20.88
8 セルゲイ・ブリン Google アメリ 51 138 20.01
9 アマンシオ・オルテガ インディテックス(Zara) スペイン 89 124 17.98
10 スティーブ・バルマー Microsoft アメリ 69 118 17.11
11 ロブ・ウォルトン ウォルマート アメリ 80 110 15.95
12 ジム・ウォルトン ウォルマート アメリ 76 109 15.81
13 ビル・ゲイツ Microsoft アメリ 69 108 15.66
14 マイケル・ブルームバーグ ブルームバーグ アメリ 83 105 15.23
15 アリス・ウォルトン ウォルマート アメリ 75 101 14.65
16 ジェンスン・フアン NVIDIA アメリ 62 98.7 14.31
17 マイケル・デル Dell アメリ 60 97.7 14.17
18 ムケシュ・アンバニ リライアンス・インダストリーズ インド 67 92.5 13.41
19 カルロス・スリム テレフォノス・デ・メヒコ メキシコ 85 82.5 11.96
20 フランソワーズ・ベッテンコート・マイヤーズ ロレアル フランス 71 81.6 11.83
21 ジュリア・コーク コーク・インダストリーズ アメリ 62 74.2 10.76
22 チャールズ・コーク コーク・インダストリーズ アメリ 89 67.5 9.79
23 張一鳴 ByteDance(TikTok) 中国 41 65.5 9.50
24 チャンポン・ジャオ(趙長鵬) Binance(バイナンス) カナダ 48 62.9 9.12
25 ジェフ・ヤス サスケハナ・インターナショナル アメリ 66 59.0 8.56
26 鍾睒睒 農夫山泉 中国 70 57.7 8.37
27 トーマス・ピーターフィー インタラクティブ・ブローカーズ アメリ 80 57.3 8.31
28 ゴータム・アダニ アダニ・グループ インド 62 56.3 8.16
29 馬化騰(ポニー・マー) テンセント 中国 53 56.2 8.15
30 柳井正 ファーストリテイリング(ユニクロ) 日本 76 45.1 6.54

29人が500億ドル(7.35兆円)以上です。1年で1億ドル(147億円)使ったとすれば、500年かかります。これは資産が使うためでないことを意味しています。資本主義など、現存するあらゆる経済原理は、貨幣経済を前提としていて、」お金」を使うことを前提としています。

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順位 国名 長者人数
1 🇺🇸 アメリカ合衆国 902人
2 🇨🇳 中国(本土+香港) 450人
3 🇮🇳 インド 205人
4 🇩🇪 ドイツ 171人
5 🇷🇺 ロシア 140人
6 🇨🇦 カナダ 76人
7 🇮🇹 イタリア 74人
8 🇭🇰 香港 66人
9 🇧🇷 ブラジル 56人

国別で、集計したビオネリア(純資産が10億ドル=1470億円以上の人)数です。

共産国家であり、国民が平等であるはずの中国が世界第2位のビオネリア数です。ここららも、独裁だけ残った共産国家の変貌が解ります。

----------------------------------------------------

日本はプラザ合意以降、バブルと長期不況を経験しています。

  • 資本主義は格差をエンジンとするが、それには、再分配が不可欠

  • その結果税金が上がり、大きな政府となる
  • 行政の効率が下がり、国民の不満は増大する
  • お金がない層には政治力もないため、彼らのために政策は採られなくなる
  • 政治を効率化して、小さな政府(新自由主義)となる
  • 小さい政府化で再分配が崩れ、経済格差は増大する。
  • 富裕層は物はすでに持っていて、ほしいそうには「お金」がないので、経済は停滞する
  • ウルトラ富裕層は何代にわたり、資産を維持
  • 資産は使うより、政治力の大きさとなる
  • 固定化した社会

資本主義は単なる経済システムではなく、政治・社会・文化のすべてと密接に結びついています。再分配を伴わない格差拡大は、最終的に資本主義そのものの持続性を脅かそうとしています。

------------------20世紀からの世界史年表-------------------

20世紀前半(1901年〜1950年)
1905年: 日露戦争終結ロシア革命(第1次)が勃発し、ロマノフ朝が動揺。

1914年: 第一次世界大戦勃発。オーストリア=ハンガリー帝国のフェルディナント大公夫妻がサラエボで暗殺されたことが引き金となる。

1917年: ロシア革命(2月革命と10月革命)により、ロマノフ朝が崩壊し、ソビエト政権が樹立される。

1918年: 第一次世界大戦終結ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国などが崩壊。

1919年: パリ講和会議ヴェルサイユ条約が締結され、国際連盟が設立される。

1929年: 世界恐慌が勃発。アメリカのニューヨーク株式市場の株価大暴落(暗黒の木曜日)が引き金となり、世界経済に深刻な影響を与える。

1933年: ドイツでアドルフ・ヒトラーが首相に就任し、ナチス政権が誕生する。

1939年: 第二次世界大戦が勃発。ドイツ軍がポーランドに侵攻したことが開戦のきっかけとなる。

1941年: 日本が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が始まる。

1945年: 第二次世界大戦終結。日本に原爆が投下され、ドイツと日本が降伏する。国際連合(UN)**が設立される。

1947年: インドとパキスタンがイギリスから独立。

20世紀後半(1951年〜2000年)
1949年: 中華人民共和国が成立。

1950年: 朝鮮戦争が勃発。

1955年: ワルシャワ条約機構が設立され、東西冷戦の構造が固まる。

1961年: ベルリンの壁が建設される。

1962年: キューバ危機が勃発。米ソ間の核戦争の危機が最高潮に達する。

1964年: 東京オリンピックが開催される。

1965年: ベトナム戦争が本格化する。

1969年: アポロ11号が月面着陸に成功。

1973年: 第四次中東戦争と石油危機(オイルショック)が発生。

1989年: ベルリンの壁が崩壊。東欧の民主化運動が進展する。

1991年: ソビエト連邦が崩壊し、冷戦が終結する。

1993年: 欧州連合EU)が発足。

1997年: 香港が中国に返還される。

1999年: ユーロが単一通貨として導入される。

21世紀(2001年〜現在)
2001年: アメリカで同時多発テロ事件が発生。アフガニスタン戦争が始まる。

2003年: イラク戦争が始まる。

2008年: リーマン・ショック世界金融危機)が発生。

2011年: 東日本大震災が発生。アラブ世界で民主化運動(アラブの春)が広がる。

2015年: パリ協定が採択され、地球温暖化対策の国際的な枠組みが合意される。

2020年: 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界的に流行。

2022年: ロシアがウクライナに侵攻。

2024年: パリ・オリンピックが開催。

 

明治維新とは?―理想と現実

                     はじめに

「維新」という言葉は、今なお私たちの暮らしの中に深く息づいています。政党の名前に用いられたり、大河ドラマの題材になったりと、明治維新は多くの日本人にとって「希望に満ちた新時代の幕開け」というイメージで語られがちです。

しかしその一方で、明治維新は薩摩・長州を中心とした武力クーデターの側面を持っていたとも言われています。理想に満ちた改革としての顔と、現実的な権力闘争としての顔――その両面を見つめ直すことは、現代を生きる私たちにとっても意味のあることではないでしょうか。

このブログでは、そんな明治維新の理想と現実、そして現代に残した影響について、あらためて考えていきたいと思います。

    1. 明治維新の背景 ― 世界と日本の変化

19世紀半ば、欧米列強によるアジア進出が本格化しました。
特に1853年のペリー来航は、日本に大きな衝撃を与えます。それまで200年以上続いてきた鎖国体制が崩れ、幕府は開国を迫られました。アメリカの南北戦争は1861-65年です。アメリカの国力はヨーロッパ各国に比べかなり弱い時代です。幕府は ヨーロッパ各国の情勢は長崎経由で知っていましたが、アメリカは太平洋を越え直接江戸沖に来たのです。しかも蒸気機関で動く「黒船」であったことは、当時の人にとっては衝撃でした。幕府は国を守っていかなければならず、それまでの慣習では黒船に対処する人材がいませんでした。

憂:農村経済の疲弊、百姓一揆や打ちこわしの増加

外患アメリカによる開港要求、安政の五カ国条約(不平等条約

こうした危機感の中で、一部の志士や藩士たちは西欧に対抗できるように、日本を「近代国家」へ変革しようと考えるようになります。

     2. 薩長の台頭とクーデター

明治維新は理想だけでなく、現実には武力による政権交代という側面がありました。

長州藩:攘夷から公武合体論を経て討幕へ

薩摩藩:初めは幕府寄りだったが、公武合体の限界を知り倒幕へ転換

坂本龍馬中岡慎太郎ら:薩長同盟を仲介

1867年の大政奉還は、徳川慶喜が政権を朝廷に返上したものの、すぐに王政復古の大号令で旧幕府を排除。
鳥羽・伏見の戦いを経て、新政府軍は江戸へ進軍し、1868年に江戸城無血開城させました。

これは理想だけでなく、武力と策略によるクーデターであったというのも否めません。

この頃の日本は江戸幕府による中央政権国家でなく、年貢を納めるのは各藩でしたし、各藩は灌漑で、農地を増やしたり、色々な産業を振興したりして、収入を上げていました。その中でも長州藩は朝鮮との貿易で、薩摩藩琉球王国を配下に収め中国貿易で利益を得ていました。

   3. 維新の改革 ― 革新性と問題点

新政府は「五箇条の御誓文」を掲げ、近代国家建設を急ぎました。

主な改革

  • 四民平等(士農工商の廃止)
  • 廃藩置県:藩を廃止し中央集権体制へ
  • 学制発布:近代教育制度
  • 地租改正:貨幣による税徴収
  • 徴兵令:国民皆兵
  • 郵便制度・鉄道敷設・近代産業の育成

問題点

  • 四民平等といいつつ、華族や士族など特権的地位は温存
  • 年貢を治め、さらに兵役を課されることで、百姓の負担は大きくなり、一揆が多発しました。
  • 元々の権力が薩摩・長州・土佐・肥前など「維新の功臣」に集中しました。

理想と現実のギャップは、人々の不満や士族反乱西南戦争など)を招きました。

西南戦争 - Wikipedia

船中八策 - Wikipedia

🏯 明治時代の総理大臣・出身藩・就任時期一覧

# 氏名 出身藩 就任開始 備考
1 伊藤博文 長州藩(現在の山口県 1885/12/22 初代・4回就任
2 黒田清隆 薩摩藩(現在の鹿児島県) 1888/04/30  
3 山県有朋 長州藩 1889/12/24 2回就任
4 松方正義 薩摩藩 1891/05/06 2回就任
5 伊藤博文(再) 長州藩 1892/08/08  
6 伊藤博文(三) 長州藩 1896/09/18  
7 松方正義(再) 薩摩藩 1896/09/18 同日再任
8 大隈重信 佐賀藩 1898/06/30  
9 山県有朋(再) 長州藩 1898/11/08  
10 伊藤博文(四) 長州藩 1900/10/19  
11 桂太郎 長州藩 1901/06/02 3回就任
12 西園寺公望 公家(京都) 1906/01/07 2回就任
13 桂太郎(再) 長州藩 1908/07/14  
14 西園寺公望(再) 公家(京都) 1911/08/30  

   4. 明治維新が現代に残したもの

明治政府が急速に進めた近代化は、日本を欧米列強の植民地化から救いました。しかし同時に、

中央集権的な官僚制

特定の出身地に偏った政治的エリート

国家のために個人が犠牲になるという考え方

富国強兵による軍事国家化

といった「負の遺産」も残しました。

現在でも、政治家に薩長出身者が多かった歴史や、維新という言葉がポジティブに響く背景には、この歴史が影響しています。

     5. 「維新観」を再考する

大河ドラマなどでは、明治維新は「正義の革命」として描かれがちです。しかし、実際には権力闘争であり、多くの犠牲を伴った現実があります。

司馬遼太郎(1923–1996)は、小説やエッセイを通じて多くの人々に明治維新の人物や時代背景を親しみやすく描きました。『竜馬がゆく』や『世に棲む日日』などは、維新を志士たちの理想主義や行動力の物語として描き、多く人に読まれました。これにより、明治維新の「イメージ」が出来上がりました。

誰が利益を得て、誰が犠牲になったのか?

近代化は避けられない運命だったのか?

こうした問いを持つことで、「維新観」に隠された歴史の複雑さが見えてきます。

                                      おわりに

明治維新は、確かに日本を近代国家へと変えました。しかしそれは単純に「素晴らしい革命」だったのではなく、多くの矛盾や犠牲を伴った歴史でもあります。明治時代には薩摩藩士と長州藩士が程交互に総理大臣を務めています。
さらに戦後の総理大臣も山口県の選挙区出身者が多い事に繋がっています。だからこそ、今を生きる私たちが「維新とは何だったのか」を考え直すことに意味があるのです。