はじめに
徳川幕府を振り返ると、単なる独裁政権ではなく、「封建的な統治体制」を持った、緩やかな中央集権的政権と捉えるのが正確かもしれません。西欧諸国は古代ローマ帝国以来の中央集権体制を採用しており、ここのパラダイムが現在の西欧の基準に受け継がれています。
現在進行中の大きな紛争も、こうした西欧的な価値基準との軋轢が背景にあると考えられます。
現在の日本では、西欧的な視点で物事を判断しがちです。しかし、日本は海という自然の要塞に守られ、比較的緩やかな中央集権体制(封建的な統治体制)がとられていました。この緩やかな体制が、250年間の平和を保ち、戦乱を防いだ要因であり、明治維新に至る危機感の源でもありました。
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江戸幕府の中央主権
中央集権的な要素
江戸幕府は、中央集権的な要素をいくつか持ち合わせていました。
1. 幕府の直轄領(天領)
幕府は日本全土の約4分の1を直轄地として管理し、経済や重要資源を中央(江戸)から直接コントロールできる体制を整えていました。
2. 参勤交代制度
諸大名を定期的に江戸に滞在させることで、地方大名が独自に強大化するのを防ぎ、幕府が諸大名を監視しました。この制度は、諸侯の経済力を消耗させ、幕府の中央統制を強化するものでした。
3. 外交権の独占
幕府は鎖国政策を維持し、各大名が外国との独自の関係を持つことを禁止し、国の外交を一手に引き受けました。
封建的な要素
一方で、徳川幕府は完全な中央集権国家ではなく、封建的な要素も顕著に見られました。
1. 封建制度
諸大名はそれぞれ独自の領地を持ち、自治を行っていました。藩ごとに独自の法や財政制度が存在し、地方統治においては相当の独立性が認められていました。
2. 幕藩体制
幕府と藩の二重統治体制が存在し、幕府は全国を直接支配せず、地方の諸藩に自治権を与えていました。各藩は領内での政治、経済、軍事をほぼ独自に行い、この点で幕府の統治は封建的と言えます。
3. 江戸時代の文化と経済基盤
江戸時代には、茶道などを中心とした わびさび や浮世絵に代表される町人文化が発展しました。日本独自の文化が成熟し、西欧文化とも融合して「ジャポニズム」として影響を与え、印象派などの西欧芸術にも大きな影響を与えました。
また、緩やかな中央集権体制のもとで、薩摩藩は琉球を通じて 清 と、長州藩は対馬を介して 朝鮮半島 と独自に貿易を行い、富を蓄積していました。この経済的基盤が、明治維新を実現する原動力となりました。
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「日本」
「日本」という国号の歴史は、単に国名そのものの変遷をたどるだけでなく、古代社会の構造や思想、そして現代の日本人のアイデンティティ形成に深く関わっています。この複雑な問題を扱う際には、多様な視点から歴史を捉え、読者に正確で客観的な情報を提供することが重要です。私たち日本人は「日本」をよく捉えがちです。それは、父母をはじめ先祖を客観的に捉える事と同じです。自分の立ち位置を考慮しない発言が多いように思います。海外からの「日本」には外交辞令が含まれます。
明治維新と中央集権
明治維新は、ロマンあふれる時代として語られ、ドラマの題材にも多く取り上げられています。政党名にも使われることから、多くの人がその時代に憧れを抱いているようです。しかし、調べてみると違った側面が浮かび上がってきます。
実際、明治維新は長州藩と薩摩藩によるクーデターとして捉えることができます。これは明治時代の総理大臣の出身藩を見るとよくわかります。その影響は現代にまで続いています。明治政府は西欧諸国に学びながら、中央集権的な統治を進め、藩を廃止して全国を直接統治する体制を築きました。「富国強兵」に象徴される支配構造です。
1885年初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任して以来、1906年公家出身の西園寺公望が12代内閣総理大臣に就任するまで、全て藩閥政治家である。公家出身の西園寺(第14代も務める)も藩閥に近い立場であったから、藩閥の影響が薄れるのは1918年就任の19代目原敬以降であった。
- 伊藤博文(長州藩)1・5・7・10代目
- 黒田清隆(薩摩藩)2代目
- 山縣有朋(長州藩)3・9代目
- 松方正義(薩摩藩)4・6代目
- 大隈重信(肥前藩)8・17代目
- 桂太郎(長州藩)11・13・15代目
- 山本権兵衛(薩摩藩)16・22代目
- 寺内正毅(長州藩)18代目
- 田中義一(長州藩)26代目
中央集権のリスクと民主主義
中央集権は強力な統治体制を構築する一方で、権力の一極集中が独裁的な危険性をはらむリスクがあります。現代の民主主義では、憲法・法律で政府を暴走しないようにし、地方分権の仕組みや、マスコミの監視の元、公的組織の独自性を保証し、それらの制約のバランスを取りながら政治を行う事が重要です。
江戸時代の幕府と藩の関係は、現在の「国家」と「地方自治体」の関係と異なり、封建的な性質を持ちながらも、緩やかな中央集権政権であったことが、江戸時代の長期的な安定を支えた一方で、崩壊も招きました。
中央集権体制の危うさも理解することが重要です。権力の一極集中は独裁に陥るリスクを伴うため、バランスを取る仕組みが現代の政治体制にも求められています。
さいごに
江戸時代の税制では、年貢は各藩に納められ、幕府に直接納められることはありませんでした。そのため、藩ごとに課される年貢の率は大きく異なることもありましたが、地域ごとの独自性が守られていました。このため、人々は「国」を藩と認識し、「国に帰る」や「お国はどちら」といった表現が昭和時代まで使われていたのです。現在の「国家」と「県」の関係に対して、当時の「幕府」と「藩」の関係は、仕組みや権力の集中度合いが大きく異なっていたことがわかります。
同時に、中央集権の持つ危険性も忘れてはなりません。権力が一極に集中しすぎると独裁に近づく可能性が高まるため、バランスを保つ仕組みが必要不可欠なのです。
現代の日本社会を考察する上でも江戸幕府をどう捉えるかは重要だと思います。